美代子がかつて『初代走死走愛総長・音速の美代子』として峠で暴れ回っていた高校時代の短編スピンオフ
時は1990年代初頭。
バブルの残り香がまだ街のネオンに燻り、峠の夜がもっともギラついていた時代。
首折れ峠の山頂パーキングエリアには、数十台の単車と改造車が集結していた。
直管マフラーのコール音、紫煙を吐き出す2ストロークのオイル臭、そして缶コーヒーの空き缶が転がるアスファルト。近隣五市の暴走族連合を束ねる武闘派集団『狂乱蛇』の頭、通称・カミソリ竜二が、鉄パイプを肩に担ぎながら唾を吐き捨てた。
「おい、例の女はまだ来ねえのかよ。女のくせに『走死走愛』なんて看板掲げて峠荒らしとるアマがよォ」
「竜二さん、来ますよ! あいつは『減速する単車を見ると背後からドツき倒したくなる病気』にかかってる本物の狂人ですから!」
舎弟が怯えたように叫んだその刹那、谷底から夜の静寂を粉砕する狂乱の金属音が這い上がってきた。
ギャァァァァァァァァンッッ!! ペケペケペケペケッッ!!
甲高い直管サウンド。
闇の霧を切り裂いて現れたのは、真っ白なフルカウルにド派手なショッキングピンクのファイヤーパターンをペイントした、伝説の2ストロークレーサーレプリカ――NSR250R。
乾式クラッチがチャラチャラと威嚇の音を立て、チャンバーのテールエンドからは青白い閃光が弾け飛んでいる。
キキィィィッ!
ステップを地面に擦り付けながらスピンターンを決めて停車した単車から、片足をスラリと下ろしたのは一人の少女だった。
肩まで届く聖子ちゃんカットをポニーテールに束ね、羽織っているのは漆黒のロング丈特攻服。
背中には金糸と紅糸で極太に刻まれた文字――
『初代走死走愛総長・音速の美代子』
『アクセル戻すな命を戻せ』
「……待たせたね、トカゲ野郎ども」
美代子(当時17歳)はスモークシールドを跳ね上げると、キリッとした切れ長の瞳で竜二を睥睨した。
美少女と呼ぶにふさわしい整った顔立ち。だが、その口元には、現在の息子・一条走と全く同じ「三日月型の狂気の笑み」が刻まれていた。
「テメエが音速の美代子か! 噂通りいいオンナじゃねえか。だがよォ、この首折れ峠は男の戦場だ。女のおままごとで走れるほど甘くねえぞ!」
竜二が木刀を突きつける。
美代子はフッと鼻で笑い、特攻服のポケットから取り出した『愛のスコール』の缶をプシュッと開けて一気に飲み干した。
「四の五のうるさいよ。男だの女だの言ってる時点で、あんたのキャブレターは詰まってんだよ。……峠のルールはシンプルでしょ? 『一番速い奴が一番偉い』。違うかい?」
「ナメ腐りやがって! おい、ダウンヒルのデスバトルだ! 下りのヘアピンでガードレールの錆にしてやるぜ!!」
竜二の400cc直4モンスターと、美代子の2ストNSRがスタートラインに並ぶ。
ギャラリーのコールが一斉に鳴り響き、旗が振り下ろされた――!
ドガァァァァァァンッ!!
一瞬でリヤタイヤをホイールスピンさせ、白煙の壁を突き破って飛び出したのは美代子だった。
車体を低く伏せ、長いポニーテールを夜風になびかせながら、時速160kmで下り勾配のストレートを駆け抜ける。
「は、速えええっ!? なんだあのスタートダッシュは!?」
竜二が必死にスロットルを捻り、排気量のパワーで追走する。
だが、首折れ峠の悪魔は、その先に待つ直角ヘアピン『すり鉢の落とし穴』だった。
外側は底の見えない漆黒の崖。
竜二が恐怖に耐えかねてブレーキレバーを強く握り込んだ、その瞬間――
「どきな、トロいよ!!」
美代子のNSRは、ブレーキランプを一切点灯させなかった。
「な……ッ!? ブレーキかけろアマァッ! 曲がれるわけねえだろォッ!!」
竜二の絶叫を置き去りにし、美代子は単車をほぼ路面と平行になるまで無理やりバンクさせた。
ガガガガガガッ!!
ステップはおろか、特攻服の膝パッドがアスファルトを削り、激しい紅蓮の火花を撒き散らす。
遠心力で身体が崖下へ引きちぎられそうになりながら、美代子はヘルメットの中でケラケラと笑っていた。
「あはははっ! タコメーターの針が折れそう! 最高に気持ちいいじゃないかァッ!!」
竜二の視界が、美代子の撒き散らす火花とタイヤスモークで真っ白に染まる。
スライドするリアタイヤをアクセル全開のトルクだけで強引に押し出し、美代子はまるで物理の重力に唾を吐きかけるようにヘアピンをねじ伏せて立ち上がっていった。
竜二は戦意を完全に喪失し、惰性でブレーキをかけて路肩に停車した。
ヘルメットを脱いだ竜二の顔は、汗と恐怖でぐしゃぐしゃだった。
「……あんなの、人間じゃねえ……。音速の美代子……あいつ、脳みそにブレーキが付いてねえんだ……」
ゴール地点のふもと。
追いついてきた狂乱蛇のメンバー全員が、美代子の前に膝をついて土下座していた。
「ま、参りました美代子総長……! 首折れ峠の看板は、今日から走死走愛のモンです……!」
特攻服の腕をまくり、煙草ではなく『チュッパチャプス(コーラ味)』をペロペロと舐めながら、美代子は勝ち誇ったように笑っていた。
「分かればいいんだよ。次から峠で見かけたら、ちゃんと減速しないでインを開けな――」
そこへ。
チャリン、チャリン、チャリンッ!!
けたたましい前カゴのベルの音とともに、ママチャリに乗った割烹着姿のオバサン――美代子の母親(走の祖母)が、物凄い形相で夜の峠を立ち漕ぎで駆け下りてきた。
「みーよーこォォォォォォォッッ!!」
「ゲッ……お母ちゃん!?」
美代子の顔から、先ほどまでの威風堂々たる総長の覇気が一瞬で吹き飛んだ。
「あんたねえ! 明日は朝から家庭科の調理実習だって言ってんだろうが!! エプロンにアイロンもかけずに何が『走死走愛』かいこのバカ娘がァッ!!」
バチィィィィィィィンッッ!!
母親が前カゴから引き抜いた『泥付きの巨大ゴボウ』が、美代子のヘルメットの頭頂部にクリーンヒットした。
「ぶべらッ!?」
伝説の総長が、愛車の横で綺麗にひっくり返る。
「単車は没収だよ! ほら、ママチャリの後ろにロープ繋ぎなさい! 家まで引っ張って帰るよ!!」
「や、やめてよお母ちゃん! みんな見てる前でママチャリ牽引は恥ずかしいってばァァッ!!」
土下座していた暴走族一同が、呆然と口を開けてその光景を見上げていた。
泣き叫びながらママチャリにロープで引っ張られて闇の中へ消えていく音速の美代子。
血と、凶器と、牽引の遺伝子。
それは三十年後、長ネギとスーパーDioへと受け継がれ、息子・一条走を永遠に怯えさせる最凶の輪廻の始まりにすぎなかった。




