第6章:空飛ぶサイドカーと時速250kmのメンチ切り
料金所の遮断機を時速80kmのすり抜けで突破した先、霧降有料道路のパーキングエリアは、不気味な白煙と冷気に包まれていた。
標高900メートル。濃霧がアスファルトを濡らす広大な駐車場には、数十台のモンスターマシンが整然と並び、けたたましいアイドリング音を響かせている。
カウルに刻まれた漆黒のトライバルライン、そして背中に刺繍された文字は――『漆黒旋風』。
「うわぁ……なんかみんな黒くて強そう」
一条走が昭和旧車のシートから呑気に首を傾げる。
その横で、2ストローク車から降りた川手敬太は、顔面をみたらし団子のタレまみれにしたまま「おい見ろよ走、あいつら全員お揃いの高いツナギ着てやがるぞ! 金持ってんな!」とピントの外れた歓声を上げた。
「……バカども、静かにしろ」
黒崎蓮司がツナギの腰履きを直しながら、氷のような目つきで前方を睨む。
サラサラの長い黒髪が霧風に揺れ、ノースリーブからのぞく引き締まった腕に緊張が走っていた。
蓮司の視線の先――漆黒旋風の単車群が左右に割れ、奥から一台の異様なマシンが静かに滑り出てきた。
イタリア製の最新型スーパースポーツ。フルカーボンカウルに身を包み、液晶メーターが近未来的な光を放つ化け物バイクだ。
跨がっている男は、プラチナブロンドの長髪をなびかせ、純白の革ツナギに身を包んだ美形――『漆黒旋風』の総長、「音速の貴公子」こと白銀怜。
白銀はスモークシールドをゆっくりと跳ね上げると、冷笑を浮かべながらRED ZONEの面々を一瞥した。
「……下品な排気音だ。それに、なんだその生魚と焦げたプラスチックの悪臭は。……豚小屋から迷い込んできたのかい?」
「生魚じゃねえよ! 国産牛豚合挽ミンチ4割引のトレイの匂いだよ!!」
敬太が即座に怒鳴り返す。
「敬太、自慢気に言うな恥ずかしい」
蓮司が手元の14mmスパナで敬太の側頭部を小突いた。
白銀は敬太を視界から完全に抹消し、走のボロい旧車へと視線を落とした。
「電子制御トラクションコントロールなし、ABSなし、昭和の鉄フレーム。……そんな前時代の鉄クズで、僕の『絶対領域』に挑もうというのかい? 僕のマシンは時速250kmでコーナーへ進入し、コンマ1秒の狂いもなく最適なバンク角を自動計算する。君たちのような野蛮な減速知らずとは、住む次元が違うのさ」
白銀が指をパチンと鳴らすと、背後から地鳴りのような重低音が轟いた。
現れたのは、巨大な1300ccメガスポーツをベースにした、異形のレーシング・サイドカー。
乗っているのは、スキンヘッドに刺青を刻んだ巨漢の兄弟――通称「サイドカー兄弟」の兄・剛田と弟・力丸だ。
「ガハハハハッ! 坊っちゃん、こいつらが例の田舎ナンバーか!?」
パッセンジャー席(舟)に乗る弟の力丸は、シートベルトすら締めず、巨大な鉄パイプを片手にサイドカーのフレームの上に仁王立ちしていた。
「おい田舎者! 俺たちのサイドカーはな、コーナーのたびに俺が外側へ身を乗り出して『人間スタビライザー』になるんだよ! 時速250kmで崖っぷちを旋回しながら、並走する単車に時速250kmのメンチ切って蹴り落とすのが俺たちのスタイルよォッ!!」
「空飛ぶサイドカー……!」
シンジがノートPCを高速タイピングしながら息を呑む。
「側車側への遠心力モーメントを人間の体重移動で極限まで相殺し、三輪特有の転倒限界を引き上げるアクロバティック走法! しかし、パッセンジャーが空中に飛び出しすぎて空気抵抗係数(Cd値)は完全にダンプカー並みです!!」
「おいガリ勉、誰がダンプカーだコラァッ!!」
力丸が鉄パイプを振り回して威嚇する。
一触即発の空気。
普通のヤンキーならチビるか、あるいは喧嘩腰で殴りかかるところだ。
だが、総長の一条走は、目をキラキラと輝かせながらサイドカーの車輪に駆け寄っていた。
「ねえねえオッサン! その横についてるちっちゃい車輪、何インチ!? コーナーで浮いたとき空回りしてめちゃくちゃ回るんじゃないの!? 回していい!? 手でスピンさせていい!?」
「あ……? おい、触んなクソガキ! ウィリーバーじゃねえぞ!!」
剛田が怒鳴るが、走は全く意に介さずタイヤの溝を覗き込んでいる。
「走、やめろ、油で手が汚れる」
蓮司が走の襟首を掴んで引き戻し、白銀に向き直った。
「……御託はいい。ルールは『減速無用、何でもあり』だったな。勝てば現金100万とハイオク1000リットル。……それだけあれば十分だ」
白銀は不愉快そうに眉をひそめ、薄く笑った。
「フッ……身の程知らずめ。いいだろう、霧降の闇の底で、自分の無力さを噛み締めるがいい」
その緊迫した睨み合いの真ん中を、トコトコと横切る小さな影があった。
チビ(小林蓮)だ。
チビは魔改造原付から降りると、漆黒旋風のメンバーたちがたむろする高級ケータリングのテントへ迷わず直進。
テーブルの上に置かれていた、白銀専用の『最高級・飛騨牛ローストビーフサンド』を無言でひょいと手に取った。
「お、おい貴様! それは白銀様の――」
取り巻きが制止しようとした瞬間、チビはガブリと豪快に噛みつき、もぐもぐと咀嚼しながら白銀の顔をじっと見上げた。
そして、ポケットから先ほどSAで買った『みたらし団子の残り1本』を取り出し、白銀の純白の革ツナギの胸ポケットへスッと突き刺した。
「……等価交換」
「な……ッ!? 僕の特注ダイネーゼに、タレを……タレを付けただとォォォッ!?」
白銀の端正な顔が、生まれて初めて見るレベルの激怒で真っ赤に染まった。
優雅なナルシストの仮面が、一瞬で粉々に砕け散る。
「殺す……! 全車、エンジン始動ッ!! こいつらを霧降の崖から一台残らず叩き落とせェェェッ!!」
「「「ウオオオオッッ!!」」」
数十台のヘッドライトが一斉に霧を切り裂き、爆音の嵐が夜空を震わせる。
それを見た敬太が、顔中のみたらしダレを拭いながらニヤリと笑った。
「っしゃあ! 相手の頭が先にレッドゾーン入ったぞ! 走、行くぞオラァッ!!」
「うん! あのサイドカーと全開で並走してみよう!」
賞金100万と誇り、そしてみたらし団子のタレを賭けた、霧降峠の狂乱バトルが幕を開けた。
スタートフラッグが振り下ろされた瞬間、10台以上のモンスターマシンが一斉に濃霧の闇へと雪崩れ込んだ。
標高1000メートルの夜風を切り裂き、下り勾配のヘアピンへ突入する。
先頭集団を猛追するRED ZONEの背後から、地響きのような1300ccメガスポーツの爆音が迫ってきた。
「ガハハハハッ! 田舎ナンバーのモグラどもがァッ!!」
『漆黒旋風』のサイドカー兄弟だ。
兄・剛田が極太タイヤをアスファルトに食い込ませて急接近し、側車(舟)に仁王立ちした弟・力丸が、太さ5センチの足場用鉄パイプをブンブンと風切り音を立てて振り回している。
「時速180kmのフルスイング、脳天で受け止めなァッ!!」
力丸の凶悪な一撃が、最後尾を走る敬太のヘルメットめがけて振り下ろされた――その刹那。
「甘えんだよハゲエエエエッ!!」
敬太は避けるどころか、左手でシート下に増設されていた怪しいバルブを一気に全開まで捻った。
高速道路で吸い込んだ『おがくず』と『焦げた発泡スチロール』の残留物に、怪しい農機具用添加剤の残り汁を直噴する自作の強制排出バルブ――名付けて『環境破壊スモーク・ディスチャージャー』。
ボボボボボッ! ブシュウウウウウウウッッ!!
チャンバーのテールエンドから、巨大な煙突が爆発したかのような漆黒と七色の混ざり合った超濃厚スモークが噴射された。霧降峠の天然の霧と合体し、視界は瞬時にマイナス30センチの完全な暗黒と化す。
「ブフォッ!? ゲホッ! ゴホッ!!」
力丸が直撃を食らい、鉄パイプを構えたまま目と鼻を押さえて悶絶する。
「な、なんじゃこの煙……!? 生魚の腐った匂いと、プラスチックの焦げた煙が気管に直撃しやがったァッ!!」
「敬太テメエ、味方まで巻き込んでんじゃねえよ前が見えねえだろがァッ!!」
すぐ斜め前を走る蓮司が、煙の中から怒号とともに19mmメガネレンチをブラインドで振り回し、敬太のリアフェンダーをガツンとシバく。
「ひぎゃあっ! 目潰し成功したんだから褒めろよ!!」
だが、サイドカー兄弟も伊達に全国区の無法地帯を生き抜いてはいなかった。
運転席の兄・剛田が白目を剥きながらハンドルを強引に右へ切る。
「煙なんぞ関係ねえ! サイドカーの自重は400キロ! 体当たりでガードレールごと崖下へ圧搾してやるわァッ!!」
キキィィィィッ!
巨大な側車の鉄フレームが、煙を切り裂いて敬太のレプリカの右側面に肉薄する。激突まであとコンマ数秒――。
その瞬間、濃霧の壁を突き破って、低くスラントした猛禽類のようなシルエットが割り込んできた。
生まれ変わった新生レーサー仕様マシンを駆る、元・狂犬會総長、鮫島だ。
「黒崎さんとシンジさんが削ぎ落としてくれたこの車体……ヤクザのセダンを踏み台にした俺を、舐めんじゃねえぞオラァッ!!」
鮫島は時速160kmの極限コーナリング中にもかかわらず、セパレートハンドルから左手を離すと、自らの単車のフレームと相手のサイドカーのパイプフレームを素手でガッシリと鷲掴みにした。
「な……ッ!? 貴様、何をする気だァッ!?」
力丸が驚愕に目を見張る。
「シンジさん! 重量差の計算はどうなってますかッ!?」
前方を走るシンジが、風圧でズレかけたメガネを押さえながら拡声器で叫び返す。
「三輪サイドカーの旋回モーメントは、インリフト時に内側へ強烈な転倒荷重がかかります! 鮫島くんの肉体重量88kgを外側の力点として作用させれば、梃子の原理により重心が崩壊します!!」
「要するに、ぶん投げればいいんだなァッ!!」
「物理学を怪力で要約するなァッ!!」
フンッッ!!と鮫島が全身の広背筋を破裂せんばかりに収縮させた。
三段シートを切り落として得た超低重心の安定感をフルに活かし、時速160kmのバンク中に相手のサイドカーの車輪を力づくで上空へ向けて持ち上げた。
ギギギギッ! フワリ……。
「う、浮いたァァァッ!? 俺たちのサイドカーが片輪走行……いや、完全に飛んでるゥッ!?」
兄・剛田の絶叫。
「貴様らァッ! これが俺たちの新しい看板……『減速無用・軽量化の極み』だァッ!!」
ドッゴォォォォンッ!!
鮫島が押し倒すように手を離すと、バランスを失ったサイドカーは道路脇の側溝にタイヤを引っかけ、まるでピタゴラスイッチのように綺麗な三半規管キラーのきりもみ回転を披露。
道路脇の杉の木の幹に、側車のフレームが綺麗にスッポリと挟まり、タイヤを虚しく空転させながら停止した。
「ば、バカな……俺たちサイドカー兄弟が、田舎の族上がりに腕力で負けただと……!?」
杉の木に宙吊りになった力丸が呆然と呟く。
その横を、チビ(小林蓮)の原付が何食わぬ顔でスーッと通過した。
チビは左手だけでハンドルを固定し、右手には峠の自販機で買ったばかりの『お汁粉(つぶあん缶)』を持っていた。
チビは杉の木に挟まって逆さ吊りになっている力丸と目が合うと、缶のプルタブをプチッと開け、ゴクリと一口飲んでから無言で親指をグッと立ててみせた。
「……ナイス着地」
「煽ってんのか小僧ォォォォッ!!」
力丸の断末魔を置き去りにし、RED ZONEの船団は濃霧を突き破って先頭を走る白銀の最新鋭イタリアンマシンへと肉薄していく。
標高800メートル地点、霧降峠の名物と呼ばれる断崖絶壁のつづら折り『風穴の三連S字』へ差し掛かったその時だった。
谷底から吹き上げてきた突風が、濃密な湿気を帯びて暴風となって吹き荒れる。
「うわっ、なんだこの横風!? ハンドルが持ってかれるぞ!」
敬太が2ストローク車を必死に抑え込む。
だが、もっとも深刻な事態に直面したのは、その後方を理論派の走りで追随していた神崎真一だった。
バキバキバキッ……メキョッ!
「……ん?」
走行風と下からの強烈な吹き上げ気流を真正面から浴び、シンジのフルカウル両サイドにガムテープとFRP樹脂で固定されていたスーパーのバナナ用ダンボール製カナード(整流板)が、激しい異音を立てて上方向へひしゃげた。
「おいシンジ! お前のバナナ箱、折れ曲がってスプーンみたいになってんぞ!」
並走する蓮司が鋭く指摘する。
「し、しまっ……! 霧降の超多湿な大気によりダンボール内部のフルート(波状段)が水分を過剰吸収! 構造強度が80%低下したところに、下層からの熱上昇気流が直撃……迎え角が下向きマイナス5度から、プラス38度へ急反転しました!!」
「日本語で叫べっていつも言ってんだろガリ勉!!」
「ダウンフォース(下向きの力)ではなく、強烈な揚力が発生していますッッ!!」
その絶叫の直後だった。
時速140キロの超高速域において、歪んだダンボールカナードは航空機の主翼そのものの役割を果たした。
フワリ……。
「……あれ?」
シンジの単車のフロントフォークが完全に伸びきり、前輪がアスファルトから浮遊。
続いてリアタイヤの接地圧もゼロになり――
ボシュウウウウウウウウウッッ!!
「飛んだァァァァァァッッ!?」
敬太がヘルメットの中で目玉を飛び出させた。
シンジのマシンが路面から完全に離脱し、白衣をスーパーマンのようにバタバタとはためかせながら、高度4メートルの夜空へふわりとテイクオフしたのだ。
「な、なんじゃあれはァッ!?」
前方を走っていた『漆黒旋風』の残党たちが、バックミラーを見て卒倒する。
夜霧の中から、ダンボールの翼を生やした高校生がメガネを光らせながら単車ごと滑空してくるのだ。もはや走り屋ではなく完全な未確認飛行物体(UFO)だった。
「物理計算が追いつきません! ベルヌーイの定理が私の想定を遥かに凌駕しています!!」
宙を舞いながら、シンジは空中で必死にノートPCのキーボードをカタカタと連打している。
「空中でもタイピングしてんじゃねえよバカヤロウッ!!」
蓮司が絶叫する。
「そのまま行ったら谷底へ真っ逆さまだぞ! どうやって着地する気だ!!」
「このままでは次のヘアピンカーブを時速140kmの放物線を描いてオーバーシュート、崖下の杉林へ直行です! ……しかし、着地角を力学的に補正する『推力偏向』の手段がありません!!」
絶体絶命の空中遭難事故。
その時、地上から呑気な声が響いた。
「シンジィー! 風に乗ってて気持ちよさそうじゃん!」
先頭の一条走だった。
走は単車の上で器用に後ろを振り返ると、満面の笑みで叫んだ。
「チビに何か投げてもらえばー!?」
「えっ!?」
空中のシンジの視線の先――下界を時速140kmで滑空するように追走していたチビ(小林蓮)が、すっと左手を原付のコンビニ袋へ突っ込んだ。
取り出したのは、夜食としてキープしていた『メガ盛り500g・冷凍チャーハン(カチコチ)』。
チビは空中のシンジとダンボールカナードの角度を一瞬で見極めると、ノータイムで右腕をムチのようにしならせ、遠心力をフルに乗せてカチコチの冷凍チャーハンを空へ向けて豪快に遠投した。
ヒュンッッ……ドコォォォッ!!
「ぐふぁッ!?」
冷凍チャーハンのブロックが、上を向いていた右側のダンボールカナードへ超精密に直撃。
強烈な衝撃でひしゃげていたダンボールが力づくで下向きへ叩き直され、左右の揚力バランスが瞬時に崩壊した。
キリモミ回転を始めながら、単車は急激に失速。
重力に引かれたシンジのマシンは、ヘアピンカーブのイン側のアスファルトめがけて垂直落下していった。
「「「うわああああっ! 墜落するゥッ!!」」」
ドガシャアアアアアンッッ!!
サスペンションが底突きし、フレームが悲鳴を上げ、火花が夜の闇を真紅に染め上げる。
凄まじい衝撃波とともにアスファルトに突き刺さったシンジの単車は、激しいスキール音を立てながら、綺麗に前方の『漆黒旋風』のメンバー2台の間にスッポリと割り込んで着地した。
煙の立ち込める中、白衣をボロボロにし、メガネのレンズが片方だけ割れたシンジが、スッと顔を上げた。
「……着地衝撃、許容応力限界内。チビくんの投擲質量500gによる迎え角補正、完璧でした」
「いや生きてんのかよ!!」
敬太の魂のツッコミが木霊する。
そしてチビは、空になった手元のコンビニ袋を畳みながら、横に並んだシンジにボソリと呟いた。
「……チャーハン代、500円」
「着地代としては安すぎます。後でツナマヨおにぎりも付けましょう」
予想外の空中ショートカットによって、RED ZONEは先頭を走る白銀のイタリアンマシンの真後ろへと一気に躍り出たのだった。
第7章:裏・霧降峠のデスバトル 〜減速したら崖下〜
裏・霧降峠の最終局面。
立ち込める濃密な霧が突風で一瞬だけ吹き払われ、眼下に現れたのは漆黒の闇を一直線に切り裂く1.5キロのダウンヒルストレート。そしてその終点に口を開ける、直角の断崖絶壁ヘアピン――通称『冥府の落とし穴』だった。
キィィィィィィン……!
先頭を滑空するように切り裂くのは、白銀怜の駆るフルカーボンイタリアンマシン。
フルカラー液晶ダッシュボードに、無機質な計器の光が青白く明滅する。
『IMU 6軸慣性センサー:正常』
『コーナリングABS:スタンバイ』
『ローンチ&トラクションコントロール:介入率12%』
「ククッ……消えたか、薄汚い田舎の暴走族どもが」
白銀はプラチナブロンドの髪をバイザーの奥で揺らし、冷笑を浮かべた。
「時速260kmからのフルブレーキング、旋回G限界値への電子介入。コンマ1ミリの無駄もない僕のコーナリングこそが、現代テクノロジーの至高の美――」
フォオオオオオオオオオオオンッッ!!!!
その優雅な monologue を、鼓膜を力づくで引き裂くような爆裂音が叩き潰した。
白銀のバックミラーが、真紅の火花で真っ赤に染まる。
「な……ッ!?」
ミラーの奥、闇の底から猛然と這い上がってきたのは、一条走の昭和旧車だった。
蓮司が超高圧縮に削り上げたシリンダーヘッドが、ノッキング限界寸前の甲高い金属悲鳴を上げている。
タコメーターの文字盤の奥――根元からボキリと折れ曲がった針の残骸が、ストッパーピンを越えてメーターの枠そのものをガリガリと削りながら狂気のように震えていた。
「バカな……追いついてくるだと!? あの前時代の鉄クズが、なぜこの速度域で空中分解しない!?」
白銀の首筋に冷や汗が伝う。
液晶メーターは時速270kmを表示。下り坂の終点、コンクリート壁とガードレールの切れ目がコンマ数秒で迫ってくる。
白銀はマシンの電子頭脳を信じ、完璧なブレーキングポイントへ指を掛けた。
「終わりだ! この先のヘアピンは、物理限界速度時速70km! ここで減速しなければ崖下へ直行――」
だが、すぐ真横に並びかけた走の右手に、ブレーキレバーを引く気配は微塵もなかった。
「え……?」
白銀の瞳孔が限界まで収縮した。
走は笑っていた。
風圧で顔の皮膚が後方へ強烈に引っ張られ、狂気じみた三日月の笑みを浮かべたまま、スロットルを戻すどころか、さらに奥へと押し込んでいた。
「おい……オマエ……ブレーキは……!? ブレーキングポイントはとうに過ぎてるぞッ!!」
時速270kmの超高速域、風切り音の嵐の中、走の声が白銀の耳元に直接突き刺さるように響いた。
「白銀くんのマシン、ピカピカ光ってカッコいいね!」
「は……!?」
「でもさ――ブレーキランプが点いてる時間、もったいなくない!?」
「正気か貴様ァァァッッ!?」
白銀の悲鳴を置き去りにし、走は車体をイン側へ向けて豪快に叩き倒した。
バンク角という言葉では説明がつかない。
アスファルトと完全に水平。ステップどころか、クランクケースのアルミカバーが路面を激しく削り、凄まじい真紅の火花が二台のマシンを包み込む。
ギュウウウウウウウウウウッ!!
タイヤのゴムが溶け、白煙が吹き上がる。
遠心力は優に3Gを超え、脳の血液が足先へ一気に押し流されるブラックアウト寸前の極限状態。普通ならフロントからスリップダウンして即座に壁のシミになるラインだ。
だが――走は曲がりながら、リアタイヤを意図的にロックさせず、アクセル全開のホイルスピンで強引に車体の向きを内側へねじ伏せていた。
蓮司が徹夜で磨き上げた足回りが悲鳴を上げながら路面に食らいつき、シンジが計算を放棄した「気合いの横滑りトラクション」が車体をイン側の縁石に押し留める。
「曲がる……!? あの速度で……電子制御もなしに、なぜ曲がりきれるんだァッ!?」
白銀の最新鋭IMUセンサーが狂乱のエラーを吐き出した。
『警告:バンク角限界突破』
『警告:計算不能な物理挙動を検知』
『警告:前方車両、回避不能――』
「僕の……僕の計算した『絶対領域』が……!!」
火花を撒き散らしながら真横をすり抜けていく走の旧車。
そのテールカウルには、折れたタコメーターの針の破片が、夕立のような火花の中にキラリと光っていた。
「アクセル戻すくらいなら――死んだほうがマシだろォォォッ!!」
ズガガガガガガガッッ!!
走のマシンはガードレールまでわずか2ミリの隙間をすり抜け、タイヤスモークで白銀の視界を真っ白に染め上げながら、ヘアピンの立ち上がりをロケットのように加速して脱出していった。
完璧な電子制御を誇った白銀は、恐怖のあまりブレーキレバーを強く握り締めすぎ、セーフティプログラムの強制介入によって車体が直立。
曲がりきれずに外側のスポンジバリアへズボボボボッと派手に突っ込んで停止した。
黄色いスポンジバリアの奥深く。
そこに、かつて「音速の貴公子」と呼ばれた男が、頭から斜め45度に突き刺さっていた。
全身を包むのは、イタリアの職人が手縫いで仕立てた世界に一着だけの純白レーシングレザースーツ。
ただし、胸元にはチビによってねじ込まれた『みたらし団子のタレ』が茶色い一本の線を描き、ヘルメットのシールドの隙間には、スポンジの削りカスが黄色い雪のように降り積もっている。
「……IMU(6軸慣性計測ユニット)は、正常だ」
白銀怜は、逆さまになった視界の中で、虚空を見つめながら呟いた。
「ボッシュ製の最新ECUも、正常に演算を続けている。……ミリ波レーダーも、対地速度センサーも、何ひとつ壊れていない。……壊れたのは……僕の、脳の論理回路だ……」
目の前に転がったフルカーボンマシンの液晶パネルには、無情にも『エラー:前走車の挙動が物理学の定義外です』という、プログラマーすら想定していないような警告文が青白く点滅していた。
「時速270キロ……。下り勾配7%……。すり鉢状ヘアピン進入角、マイナス12度……。そこからのノーブレーキ……」
白銀の瞳から、ツー……と一筋の澄んだ涙がこぼれ、逆さまになった頬を伝って額へと流れていく。
「おかしいじゃないか。現代の二輪力学において、タイヤの摩擦円は有限なんだ。制動力と旋回力はトレードオフであり、減速なしにあの曲率半径(R)へ飛び込めば、遠心力によって車体は時速200キロの質量弾となってガードレールを突き破る……それがニュートン力学だ。ガリレオ・ガリレイもそう言っていたはずだ……」
白銀は震える手で、自分の胸元に刺さったみたらし団子の串をそっと引き抜いた。
「なのに……あいつは笑っていた。『ブレーキランプが点いてる時間、もったいなくない?』と……そう言ったんだ……。もったいない? 時間の浪費? ブレーキを……安全装置を、まるで『安売りシールの貼られた惣菜を買い逃した主婦の悔しさ』と同列のニュアンスで語りやがった……」
白銀の首が、カクンとさらに深くスポンジへめり込む。
「タコメーターの針が……折れていた。計器の意味がないじゃないか。針が折れているなら、レブリミットをどうやって把握するんだ? ……音か? ピストンの悲鳴か? それとも、あの男の頭の中にあるネジの緩み具合か? 僕が3000万円かけてドイツの風洞実験室で煮詰めた空力特性(Cd値)は……バナナのダンボールと冷凍チャーハンを投げつける小僧の前に敗れ去ったのか……?」
ふと、スポンジの隙間から朝焼けの光が差し込んできた。
澄み切った山の朝の空気。鳥のさえずり。
そして、その神聖な自然の調べを暴力的に踏みにじる、あの乾いた2スト単気筒の破裂音。
ペケペケペケペケペケペケッッ!!
「……まただ」
白銀は虚ろな目で、朝焼けの空を見上げた。
「また聞こえる……。今度はなんだ? 50ccの原付……? なぜだ……なぜ50ccの排気音が、MotoGPのストレート通過音と同じドップラー効果を伴って山頂へ近づいてくるんだ……?」
遠くから微かに、山全体を揺るがすような主婦の怒号が木霊する。
『走ォォォォォッ! 追試受かったからって調子こいてんじゃないよォォォッ!!』
「……母……親……?」
白銀の唇が、小さく痙攣した。
「ヤクザを燃やし……サイドカーを宙に投げ……空飛ぶダンボールで滑空し……時速270キロでノーブレーキをかます怪物を育てた……『生みの親』が、買い物カゴにネギを刺して登ってきている……?」
カサリ、と何かがスポンジの上に落ちてきた。
白銀が視線を向けると、それは敬太のマシンから吹き飛んできた、脂っこいアルミトレイの破片だった。
そこには、朝日に照らされて誇らしげに光るラベル。
『国産牛 豚 合挽ミンチ 4割引』
「……フッ、ハハハ……」
白銀怜の口から、乾いた笑い声が漏れた。
かつて全国にその名を轟かせた「音速の貴公子」のプライドは、霧降峠の澄んだ空気の中へ、綺麗さっぱり霧散していた。
「……もう、イタリア車なんて乗らない。……明日から、僕もスーパーの特売チラシを見て暮らすよ……」
スポンジバリアの闇の中、白銀は静かに目を閉じ、完全に現実からのログアウトを選択したのだった。




