第5章:赤点免除の代償は、隣県の鬼峠
【第2部:隣県・裏霧降峠遠征編】
放課後のガレージに、けたたましい叫び声が響き渡った。
「勝ったァァァッ! 俺たちの完全なる大勝利だァァァッ!!」
特攻隊長の川手敬太が、頭上に掲げた一枚のプリントを誇らしげに振り回す。
赤ペンでデカデカと刻まれた数字――『31点』。
赤点ラインである30点をわずか1点だけ上回る、奇跡という名の薄氷の勝利だった。
その横で、総長の一条走も脱力したようにビールケースへへたり込んでいた。彼の持つプリントにも、全く同じ筆跡の赤ペンで『31点』と記されている。
「死ぬかと思った……。数学の先生が『因数分解の余白に理想のドリフトアングルを書くな』って本気でキレてたよ……」
「でも受かった! ギリギリ合格、つまりノープロブレムだ!!」
敬太がガレージの奥へ駆け込むと、工具棚の横に立っていた黒崎蓮司の前に両手を差し出した。
蓮司はツナギの腰履き姿に黒のノースリーブ。長い黒髪を後ろで雑に束ね、冷え切った缶コーヒーをすすりながら、二人の答案用紙を氷のような目で見下ろす。
「……敬太、走。問4の答えが二人とも『タイヤ空気圧2.1キロ』になってるのはどういう冗談だ」
「部分点くれたんだよ! 先生の心意気だ!」
「単にお前らの相手をするのが面倒になっただけだろ……」
蓮司は深く長いため息をつくと、作業台の引き出しから二つの鍵を取り出した。走の旧車のキーと、敬太の2ストローク車のキー。二人の母親――特に買い物カゴにネギを刺してヤクザを撃沈させた美代子から直々に預かっていた『命の鍵』だ。
チャリン、と金属音が鳴る。
「はい、返却だ。二度とおばさんに追っかけられるような真似はするなよ。……俺の胃に穴が空く」
「レン、愛してる!!」
「単車! 俺の愛車が生還したァッ!!」
走と敬太がキーを胸に抱きしめて涙を流す。
その横で、ノートPCをカタカタと叩いていたシンジがメガネをクイと押し上げた。
「私のカンニング支援……失礼、遠隔数学アドバイスがなければ二人とも即座にスクラップ工場行きでしたね。報酬のパーツクリーナー2本、楽しみにしています」
ガレージの片隅では、魔改造原付のシートに座ったチビ(小林蓮)が、コンビニの肉まんをモグモグと咀嚼しながら無言で二人へ親指を立ててみせた。平和な日常が、ようやく戻ってきたはずだった。
――だが、特攻隊長・川手敬太の辞書に「反省」という二文字は存在しなかった。
「……でよ、走」
敬太が急に声を落とし、ニヤリと下卑た笑みを浮かべてポケットからクシャクシャのチラシを取り出した。
「追試も終わって単車も戻ってきた。となると……次は『景気付け』が必要だと思わねえか?」
「敬太」
蓮司の手が、無意識に作業台の24mmメガネレンチへ伸びる。
「お前、今度は何を企んでる」
「企んでねえよ! これは俺たち『RED ZONE』が全国へ名を轟かせるための、正当なるステップアップだ!」
敬太が作業台の上に広げたのは、夜光塗料のような毒々しい紫色のインクで印刷された、明らかにアンダーグラウンドなアングラチラシだった。
『第12回 裏・霧降峠 真夜中の最速決定戦』
参加資格: 死を恐れない単車乗り
優勝賞金: 現金100万円 + 最高級ハイオクガソリン1000リットル分
ルール: 減速無用、妨害工作あり、警察不介入
「隣県の『裏・霧降峠』……!?」
奥からパーツを磨き終えた鮫島(元・狂犬會総長)が顔を出し、チラシを見るなり顔面を蒼白にした。
「おい敬太、正気かよ! あそこは隣県最悪の走り屋集団……『漆黒旋風』のシマだぞ! 連中はヤクザの本家筋とも繋がってて、負けた相手の単車を海に沈めるような本物のイカレ野郎どもだぞ!!」
「賞金を見ろよ鮫島! 現金100万円だぞ!!」
敬太が目を血走らせて力説する。
「100万ありゃあ、蓮司にスナップオンの最高級工具セット一式買ってやれる! シンジには本物の風洞実験装置をレンタルできる! チビには高級中華の肉まんを一生分食わせてやれる! そして何より――ハイオク1000リットルあれば、俺たちはガソリン代を気にせず24時間アクセル全開で走り回れるんだよォォッ!!」
「……スナップオンの一式だと?」
蓮司の眉がピクリと跳ねた。
切れ長の瞳に、ほんの一瞬だけ職人としての強烈な物欲が宿る。
「最高級ハイオク1000L……燃焼効率の極限データを採取するには十分すぎるサンプル数ですね……」
シンジがメガネの奥で不穏に瞳を光らせる。
チビが肉まんを食べる手を止め、コクリと小さく頷いた。
「おい、待て待て待て!!」
鮫島が慌てて両手を広げて制止する。
「釣られてんじゃねえよ! 『妨害工作あり』って書いてあんだぞ!? 鉄パイプどころかオイル撒かれたりスパイク落とされたりする無法地帯だぞ!!」
「鮫島くん」
静かな声が、ガレージの空気を切り裂いた。
一条走だった。
走はチラシの端に書かれた、コースのレイアウト図を指先でなぞっていた。
霧降峠――全長8キロ、高低差400メートル、連続する下りヘアピンと、最後に待ち受ける1.5キロの超ロングストレート。
走の瞳には、恐怖も金への執着もなかった。
ただ、狂気じみた純粋な好奇心がギラギラと渦巻いていた。
「この最後のストレート……下り勾配で、追い風だったらさ」
「……走?」
「タコメーターの針、折れたその先まで回るかな?」
ガレージが静まり返る。
安全装置の外れた総長の一言に、敬太がニヤリと笑い、蓮司が深く息を吐きながら頭の後ろで髪を縛り直した。
「……仕方ねえ。工具セットのために、足回りをもう一度煮詰め直すか」
「霧降峠の標高と湿度に基づく、キャブレターの吸気密度補正マップを作成します」
シンジが高速でキーボードを叩き始める。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ皆さァァァんッ!?」
鮫島の悲鳴が虚しく響き渡る中、RED ZONEの面々はすでに遠征の準備を始めていた。
午前2時。町外れのガレージの換気扇が、油煙とパーツクリーナーの霧を吸い込んで激しく唸りを上げていた。
作業台の壁には、どこから切り抜いてきたのか、スナップオンの超高級工具セット――漆黒のロールキャブに収められた、総額100万円超のツール群のグラビア写真が神棚のように貼られている。
その前で、黒崎蓮司の目が怪しくギラついていた。
長い黒髪はヘアゴムで乱暴にまとめられ、ノースリーブの胸元までオイルで黒く染まっている。普段のクールで神経質な美形メカニックの面影はどこにもない。そこにあるのは、物欲という名の業火に魂を売り渡した職人の狂気だった。
「スナップオン……フランクドライブのコンビネーションレンチ……極上の梨地仕上げ……」
ブツブツと呪文のように工具のスペックを呟きながら、蓮司は走の昭和旧車のシリンダーヘッドにトルクレンチを当てていた。
カチリ、と正確無比な金属音が響く。
「……よし。面研0.5ミリ。圧縮比を極限まで引き上げた。ハイオク指定、ノッキング寸前の超高圧縮仕様だ。……走、喜べ。このエンジンはお前のスロットル操作次第で、音速を突破するか、あるいはシリンダーヘッドが空へ打ち上がる」
「えっ、ヘッド飛ぶの!?」
ビールケースに座ってお夜食のカップ焼きそばをすすっていた一条走が、湯気の中で目を丸くした。
「飛ばすな、気合いで抑え込め。ピストンが悲鳴を上げたら回転数を落とすんじゃない、さらにスロットルを開けて燃焼室を冷却しろ」
「冷却の概念が完全に狂ってんだけど!?」
隣でポテトチップスをつまんでいた敬太が叫ぶ。
「うるせえ敬太、次はテメエの番だ。単車をジャッキに乗せろ」
蓮司はウエスで手を乱暴に拭うと、敬太の2ストローク軽量レプリカを獲物を品定めする爬虫類のような目で見据えた。
その手には、どこから調達してきたのか怪しい金属パイプとガス溶接機が握られている。
「おいレン、何すんだよ! 俺の愛車はもう完璧だぞ!?」
「黙れ。霧降峠の下り勾配と湿度85%を舐めるな。お前のピーキーな2ストは標高が上がれば失速する。だから、チャンバーをぶった切って排気容積を拡大し、高回転特化型の『超エキスパンド・コーン』を溶接する」
バチバチバチッ!
青白い閃光と火花がガレージの闇を焦がす。
「ぎゃあああっ!? 俺の純正オプションチャンバーが真っ二つにィッ!!」
「騒ぐな、肉抜きだ。あとフロントフォークの突き出しをさらに8ミリ増やした。キャスター角が立つから直進安定性は死ぬが、霧降峠のすり鉢ヘアピンでイン側に吸い込まれるように倒れ込むぞ」
「それ、ハンドルから手ぇ離したら即死するセッティングじゃねえか!!」
「離すな。死んでも握ってろ。100万のツールセットのためだ」
「本音を隠さなくなったぞこの副総長ォォォッ!!」
怒号と火花が飛び散る横で、神崎真一が白衣の裾をなびかせながら、ノートPCのキーボードを猛烈な勢いで叩いていた。
「蓮司さん、吸気流速のシミュレーション完了しました。現在のセッティングに合わせ、敬太くんのエアクリーナーボックスを撤去。代わりに、こちらを装着します」
シンジが恭しく取り出したのは、スーパーの精肉コーナーで使われるアルミ製メガ盛り用トレイと、漏斗をテープで貼り合わせた自作ファンネルだった。
「名付けて『霧降スペシャル・ラムエアインテーク』です。濃霧の水分を遠心力で弾き飛ばし、高密度の冷たい空気だけをキャブレターへダイレクトに叩き込みます。時速140km以上で約15%の過給効果を発揮します」
「ただのゴミの寄せ集めじゃねえかァッ!!」
敬太のツッコミに、シンジはメガネをキラーンと光らせて冷徹に返した。
「Cd値の悪化は、ダンボールカナードの迎え角を3度寝かせることで相殺します。計算上、問題ありません」
「お前の『計算上』で何回ガードレールに突き刺さったと思ってんだバカヤロウ!」
その喧騒から遠く離れたガレージの片隅。
最年少のチビ(小林蓮)は、クーラーボックスの上にちょこんと座り、深夜だというのに湯気の立つ『豚汁うどん』をフーフーと冷ましながら啜っていた。
チビの魔改造原付のステップには、明日の遠征に備えてすでに『おにぎり(明太子)5個』と『カロリーメイト』がガムテープで頑丈に固定されている。チビの準備だけは、常に完璧だった。
深夜3時半。
研磨剤の粉塵とガソリンの匂いの中、二台の単車が再び組み上がった。
蓮司がスプレーガンを手に取り、仕上げのクリア塗装を吹き付ける。
走の旧車は低く身構えた野獣のように沈み込み、敬太のレプリカは歪なアルミファンネルと巨大なチャンバーを備えた凶器のような異形へと進化していた。
蓮司は汗まみれの額に落ちた前髪を払い、荒い息を吐きながら二人に告げた。
「……終わったぞ。エンジンは限界までカリカリに削った。ブレーキパッドもレーシングメタルに交換済みだ。……だが、いいか走、敬太」
蓮司の眼光が、工具写真を見つめたままスッと据わる。
「もし明日のレースで減速して負けたら、お前らの単車をバラして鉄くず屋に売る。そして俺はスナップオンを買う。……分かったな?」
「脅迫の切れ味がヤクザより鋭いんだよ!!」
敬太が悲鳴を上げる。
だが、走は新しく組み上がった自車のスロットルをギュッと握りしめ、静かにニヤリと笑った。
「サンキュー、レン。……最高の音がしそうだよ」
アクセルを軽く煽ると、ガレージ全体を揺るがす乾いた破裂音が夜の闇へ突き抜けた。
タコメーターの針はすでに折れている。
だが、彼らの狙う領域は、メーターの表示などとうに置き去りにしたその先――100万円の工具とハイオクを賭けた、狂乱の隣県遠征が始まろうとしていた。
深夜2時の東名高速下り線。3車線のど真ん中を、異様な隊列を組んだ6台の単車が時速100km巡航で駆け抜けていた。
先頭を軽快に飛ばすのは、特攻隊長・川手敬太の2ストローク軽量レプリカだ。
車体の右サイドには、前夜にシンジがスーパーのゴミ捨て場から拾ってきたアルミ製メガ盛り肉トレイと、ガムテープで継ぎ接ぎされたダイソーの巨大じょうご――自称『霧降スペシャル・ラムエアインテーク』が、獲物を狙うバズーカのように前方へ口を開けていた。
「ヒャッハーーッ! 見ろよ走! 高速の風をゴリゴリ吸い込んでるぜ! 俺のキャブが過給圧でパンパンだァッ!!」
「敬太、それスーパーのトレイの『国産牛 豚 合挽ミンチ 4割引』ってシールがまだ貼ったままだよ!」
並走する一条走が笑いながら叫ぶ。
その後ろを走る黒崎蓮司は、ノースリーブの腕を組み、冷え切った目で敬太の吸気口を見据えていた。
「おい敬太。あれだけ『ラムエアの開口部に目の細かいステンレスメッシュを貼れ』と言ったはずだが、貼ったんだろうな?」
「あ? メッシュ? 空気の抵抗になるから取っ払ったぜ! 男は黙って直吸い(ダイレクトイン)だろ!!」
「死ね。高速道路の浮遊異物を舐めるな」
蓮司が冷徹に吐き捨てた、まさにそのコンマ数秒後だった。
前方を走っていた大型活魚運搬トラックの荷台から、何かの拍子に『濡れたおがくず』と、積載用の『発泡スチロールの破片』がパラパラと空中に舞い散った。
ゴボッ! ズボボボボボボッッ!!
「ぶべらッ!?」
凄まじいダイソン並みの負圧で、敬太のメガ盛りアルミトレイがそれらを根こそぎ吸い込んだ。
「ぎゃあああっ!? なんか吸った! ものすごい勢いで白い塊を吸引したァッ!!」
「敬太くん、吸気流速が急激に低下しています!」
後ろからシンジが拡声器で叫ぶ。
「発泡スチロールが吸気熱で融解し、メインジェットを物理的に閉塞! 空燃比(A/F値)が極限のリーン状態――つまり、混合気ではなくただの超高温ガスがシリンダーを満たしています!!」
「日本語で言えェッ!!」
「あと3秒でピストンが溶けてエンジンが空中分解します!!」
「ヒエッ!?」
パンッ! パパパパパァンッ!!
マフラーから散弾銃のようなアフターファイアが連射され、アルミトレイの隙間から香ばしい焼き魚の匂いと煙がモクモクと噴き出した。活魚トラックの残り香まで吸い込んだせいで、高速道路上に深夜の焼き魚定食の匂いが充満していく。
「失速する! アクセル開けてんのに時速40キロまで落ちてきたァッ!!」
敬太が必死にスロットルをガバガバと煽るが、エンジンは「ボボボ……ゲフッ」と断末魔を上げるばかり。後方から巨大な長距離大型トレーラーが、けたたましいホーンを鳴らしながら迫ってくる。
パアァァァァァァァンッ!!
「わーっ! 敬太が轢かれる! ミンチ肉になっちゃう!!」
走が叫ぶ。
「チッ……クソが!!」
舌打ち一閃。蓮司が中型ネイキッドのギアを一段蹴り落とし、一瞬で敬太の真横へピタリと隙間なく並びつけた。
時速80kmで走行中にもかかわらず、蓮司は左手だけでハンドルを抑え、右手でシート下に忍ばせていたパーツクリーナーのロングノズル缶を一閃。
「敬太、スロットル全開で固定しろ!!」
「えっ!?」
「全開にしろっつってんだボケェッ!!」
蓮司は敬太のアルミトレイの奥、ガムテープの隙間へパーツクリーナーのノズルをブスリと突き刺すと、ボタンを親指で限界まで押し込んだ。
ブシュウウウウウウウウウッッ!!
超引火性の強力有機溶剤が、詰まりかけたキャブレターへダイレクトに高圧噴射される。
ドゴォォォォォォンッ!!!!
「ひぎゃああああああああっっ!?」
チャンバーから青白い火炎放射が噴き上がり、発泡スチロールの黒煙とともに敬太の単車がロケット花火のように急加速。シートの上で敬太の身体が真後ろへ持っていかれ、両手だけでハンドルにぶら下がる『鯉のぼり』状態になった。
「加速したァァァッ! 止まんねええええええっ!!」
「ケミカル直噴による疑似ニトロ過給です!」
シンジがメモを取りながら狂喜する。
「パーツクリーナーの燃焼エネルギーで、ピストンの溶着物を力づくで焼き飛ばしました! 素晴らしい荒療治です蓮司さん!!」
「二度とやらん。缶が爆発したら俺の手首が消し飛ぶところだった」
蓮司は空になった缶をウエストポーチへ戻し、般若の形相で前方の敬太を睨みつけた。
鯉のぼり状態で夜のハイウェイを時速140kmでかっ飛んでいく敬太。
その横を、殿を走るチビ(小林蓮)の原付がスーッと等速で並びかけた。
チビは左手だけでハンドルを握り、右手には先ほどサービスエリアで買ったばかりの『みたらし団子』を持っていた。チビは風圧で団子のタレが敬太の顔面にピチャッと直撃するのを無表情で見届けながら、モグモグと口を動かしてボソリと呟いた。
「……どんまい」
「タレを目に入れるなチビ助ェェェッ!!」
焼き魚の匂いと焦げたプラスチックの白煙を撒き散らしながら、RED ZONEの珍道中は霧降峠のインターチェンジへと突入していった。




