第5章 第8幕 天元
城の裏手の道場で、兵士に混じって剣を振るう。
師範の尊儒の教え方は、双蛾とは異なる。柏仲に近いと思ったら、なるほど、柏仲の師でもあるそうだ。
老練で厳格。王の子だからと那由多を区別することはない。
だが那由多には、それがありがたかった。
天元へ帰り、一年が過ぎようとしていた。
かつてここで暮らした頃の記憶は、朧げだ。
だが、どこを歩くにも衛兵が付いて来るようなことは、なかった筈だ。
練兵場まで護送され、道場に足を踏み入れた瞬間、解放される。
無論ここでも、尊儒やほかの兵たちに守られているのだろう。
だが、ここでは窮屈な思いを味わわずに済んだ。
兵は皆、那由多より年嵩。一日中鍛錬に明け暮れ、体格もよい。試合では手ひどく打ち負かされてばかりだが、那由多は食らいついた。
「筋がよい。これまでの師も、よかったのだろうな」
尊儒がぽつりと呟くのを聞いたときには、双蛾を思い出し、誇らしくなった。
日が暮れる頃、毎日閻魔の部屋を尋ねる。
今日も、閻魔は眠っていた。
近頃は、昼間でも臥せっていることが増えた。
政務のほとんどは家臣に引き継がれ、弁慶は一日中奔走している。
子供心にも、閻魔の死期が近いことがわかる。
(父上が、いなくなる――)
忘れていた過去の夢を、また見るようになっていた。
頭から降り注ぐ母の血、咆哮し敵を斬り殺す父、動かなくなる母――
神楽のもとで暮らし、壊れた心が平穏を取り戻すまで、随分かかった。
今は神楽もいない。双蛾も、晴も陽もいない。
閻魔を失ったら、どうやって生きていけばいいのだろう。
黙って寝顔を見つめていると、ふいに閻魔が目を開けた。
視線だけが、こちらへ向いた。
「…星占がいるのかと思った。そなたは、母によく似ているな」
「…父上にも似てるって言われるよ」
言っていたのは、維辰だ。重責を担うのに偉ぶらず、いつも温和で、那由多は維辰が好きだった。
閻魔は微笑み、上体を起こした。
その拍子に咳き込む。那由多は弾かれるように立ち、その背をさすった。寝巻き越しに、肋の感触が掌に伝わった。
発作が落ち着くと、すまんな、と小さく言って、閻魔はまた微笑んだ。
「星占が、ときどき未来を見ていたことは、知っているか」
那由多は頷いた。
はっきりと聞いたことはなかったが、耳に入る会話などから何となく察していた。
「…わしの破滅が見えたそうだ。それを防ごうと、ともにいてくれた」
そのことは、知らなかった。
「星占が死んでから、国が傾き、病にも侵され、破滅は避けられぬと思ってきた。この国の前の王も、そのようなことを言っておったしな」
それも、初めて聞いた。前の王のことは、名前程度しか知らない。
「だがな。最近考え直した。これは別に、破滅などではない」
急に、閻魔が少し楽しげな顔になる。
「荒れてはおるが、国は残っている。わしの志を守ろうとしてくれる者たちもいる。それに――」
閻魔は手を伸ばし、那由多の頭に置いた。
「そなたが、こうして元気でいてくれておる」
頭が無造作に撫でられ、髪が乱れる。前髪が目にかかり視界を覆ったが、那由多は払わなかった。
「わしは、やはり、未来は変えられると思う。
――星占もな、最期に何かを変えたらしいのだ。それが何なのか…残念ながら、わからんのだが」
閻魔は少し遠い目をしたのち、那由多から手を離し、微笑んだ。
「そなたも、未来は自分で作るのだ。
正しいと思うほうへ、手を伸ばし続けなさい」
前髪に視線を遮られたまま、那由多は俯いた。
――その未来に、一緒にいてほしい。
言えぬまま、閻魔が再び横になるのを見ていた。
気がつくと、寝息が聞こえた。
髪を整え、改めて寝顔を見た。
口元に柔らかな笑みが浮かんでいるように見えた。
その翌日、閻魔は息を引き取った。




