第5章 第7幕 双蛾
翌朝早く、双蛾は厩舎へ向かった。
禽馬たちの目が、一斉に双蛾を向く。
「まだみんな寝てる。静かにね」
迅に近寄り、嘴を撫でてやる。
寄り添うように並ぶのは、燐。柏仲将軍の禽馬だ。双蛾が村に帰ったのち、迅と番になった。
燐の陰に、那由多の姿を見つけ、驚く。
「もう起きてたの?」
はにかむように、那由多は双蛾を見上げた。
「凪に自分で鞍を着けたんだ。うまく出来てるかな」
燐の傍らに立つ凪は、卵の頃から那由多が世話をした禽馬だ。敏捷さは迅に、忍耐強さは燐に似た。
歩み寄って鞍の固定を確認しつつ、双蛾はさりげなく那由多の様子を窺った。
早起きだ、と思ったが、眠れなかったのかもしれない。
双蛾とて、そうだったのだ。
星占の予言した未来が、遂に近付いているのだろうか。
封じていた後悔や焦りが、胸の奥で首をもたげる。
「うん、ちゃんと出来てる」
微笑みかけると、那由多が胸を撫で下ろした。
双蛾は迅にも馬具を取り付け、燐の首を抱き締めた。
「迅と凪を借りるよ。少し長くなるかも」
理解したのか、燐が嘴を寄せ小さく鳴いた。
神楽が、家の前で待っていた。
ふいに、初めて村を出た日の記憶が蘇った。
あの日も神楽は、こうして見送ってくれた。
暁の村へ、先導して前を行く閻魔の背中は、頼もしかった。
世界が急に広がった気がして、胸が高鳴った。
こんな日が来るとは、思いもしなかった。
那由多と二人、下馬して神楽の側へ寄る。
那由多は静かに近付き、神楽に抱き着いた。
「いつでも、またおいで」
神楽が、自分より背が高くなった那由多の頭を、そっと撫でた。
「うん。必ず来るから…オババ、ずっと元気でいてね。」
「ああ」
「晴と陽にも、また来るって言ってね。起きて僕がいなかったら、泣くかもしれないから」
「ああ」
那由多が、体を離した。
両腕で顔をこする。涙を拭いたのだろうが、双蛾からは見えなかった。
神楽が、双蛾へ目を向けた。見つめ返し、黙って頷く。
那由多が振り向いた。
「行こう」
途中で宿をとりながら、天元南部の敵対国を避け、遠回りだが東門を目指した。
人通りの少なさや焼け跡の残る街並みは、記憶の中の風景とは異なる。
城門を抜け、城の入口で番兵に訪いを告げる。見知らぬ兵士だった。
緊張した面持ちの那由多を前に立たせ、双蛾は僅かに身を引いた。
どんな顔で、閻魔に会えばよいのだろう。
天元を捨てた自分は、ここで帰るべきかもしれない。
逡巡していると、中から大きな足音が近付いた。
駆け出して来た弁慶が、身構える間もなく、那由多と双蛾をまとめて抱き締めた。
「よう来た。会いたかったぞ」
息も継げぬほどの腕の強さ。
そうだ。弁慶はずっと、こうだった。
「弁慶さん、苦しいよ」
那由多に可笑しそうに言われ、慌てて身を離す。
「おぉ、すまん」
思わず双蛾も微笑んだとき、弁慶の肩越しに、閻魔が見えた。
(――閻魔)
記憶より痩せ、顔にも老いが見える。
それでも、目元の笑みは変わらなかった。
那由多が弁慶の脇をすり抜け、駆け寄った。
「父上…!」
飛び付いた那由多を、閻魔は愛おしそうに抱き締めた。
「…大きくなったな」
「父上、病気なの?大丈夫?」
那由多の声が震える。
「今は何ともない。心配をかけたな」
「…よかった…」
閻魔は体を離し、改めて那由多を見つめた。
「本当に、大きくなった。――荷物を置いて来るといい」
目配せされた弁慶が歩み寄り、那由多の肩に手を置いた。
那由多は目元を拭い、双蛾を振り返った。
「…双蛾さん、もう帰っちゃう?」
双蛾は微笑み、頷いた。
「…また会える?」
「会えるよ。元気でね」
「うん…ありがとう」
また会えるのか、いつ会えるのか、本当はわからない。
弁慶に連れられ立ち去る那由多の姿を、双蛾は胸に刻んだ。
静寂が訪れる。
閻魔と双蛾だけが残された。
何を言えばいいのか思いつかず、双蛾はただ閻魔を見つめた。
意志の伝わる凛々しい眉を見て、ふと、那由多と同じだと気付く。
星占にそっくりだと思っていたが、二人の子供なのだ。
「ずっと、那由多を守ってくれていたのだな。ありがとう」
閻魔が、静かに微笑んだ。
抑えていた思いが瞬時に溢れる。
礼を言われる資格などない。
「閻魔…天元を、離れてごめん」
堰を切るように、言葉が出た。
「ここで那由多を守ることも、できた筈。星占も、閻魔のことも…」
閻魔は何も言わない。
「紅蓮や不知火が離れたのとは、違う。
私だけ、星占の予言を聞いていたのに、離れたの」
未来を変えられぬ苦しみに、泣いていた星占。二人で夕日を見たあの土手は、故郷の開墾を進めた際も、残した。今でも、通りかかるたびに心が波立つ。
「ごめんなさい」
絞り出したその言葉は、閻魔へ向けたものか、星占へか、自分でもわからなかった。
閻魔は、穏やかに言った。
「わしも、星占も、そなたを恨んだことなど一度もない」
双蛾は足元に目を落とす。
「そなたが村を出てともに来てくれ、嬉しかった。
一緒に、色々と夢を見てきたな。
暁、魔境、燈都――」
双蛾の胸に、ともに駆け抜けた数え切れない景色が去来する。
「そなたには、感謝しかない。本当に、ありがとう」
双蛾は、顔を上げた。
最後かもしれない。
閻魔の顔を、目に焼き付けなければ。
なのに、視界が滲んでよく見えない。
閻魔が、微笑むのがわかった。
「神楽殿に、よろしくな」
静かに閻魔が踵を返した。
背中が遠ざかる。
若き双蛾を導いてくれた、その背中が。
呼びとめることもできず、双蛾は立ち尽くした。




