第5章 第9幕 獄皇
天元の王が病により崩御した。
王子はまだ年若く、王位は空席となるらしい。
報せを聞いた不知火たちは城の最上階に上り、北へ向け黙祷を捧げた。
一年が、矢のように過ぎ去った。
魔境の各地で離奈衆による戦乱が起きている。
その全てに獄皇が関わっているわけではなさそうだが、奈落を押し出される者は明らかに増えていた。
北崖党という言葉は、聞かなくなった。
北衡嶺の守りの賜物か、かつて北崖党が築いた拠点の数々は打ち捨てられ、廃墟のようになっている。
それらの廃墟が吊り橋や梯子で繋がれているのを、不知火は、荒野の見回りの際に目にした。
地上にも、櫓が築かれている。
初期の燈都を彷彿とさせた。
(城でも作ってんのか?)
そんなことをする者は、誰だ。
(――獄皇くらいしか、いねぇよな)
遂に来るか。
この規模――軍勢も相当いる筈だ。
どう迎え討つ。
(とにかく、人界にだけは絶対に行かせねぇ)
麦畑で見た双蛾の横顔が、ふっと脳裏をよぎった。
「あぁー…とうとう来るのか…」
卓に突っ伏し、焔が頭を抱えた。
「なぁ不知火、お前、獄皇に勝てるか?」
かつても同じことを聞いた黒鉄が、眉根を寄せて不知火を見る。
「わからんが、俺だけ勝っても駄目なんだぞ?軍勢で来るんだからな」
「奈落の軍勢か…また蟲やら牛やらに乗って来るのかよ?」
銀狐は宙を見上げて呟いたのち、ため息をつき、双蛾がいればなぁ…と小声で付け足した。机の下で、焔が蹴りを入れる。
不知火は軽く笑った。
「いねぇもんは、しょうがねぇよ。その代わりに部隊を編成したろ。色々想定して、作戦立てとこうぜ」
おぅ、と一同は返事をしたが、歯切れは悪かった。
蒸し暑く寝苦しい、夏の夜。
寝返りを打った不知火は、突然寒気を覚えた。
(…何か来たな)
手早く着替えると、開け放った窓枠に立った。
灯りに煌めく街並みが眼下に広がる。変わりはない。
ついで東西へ目を配る。
――魔境側だ。
大剣を手に、地表へと飛び降りた。
厩舎の禽馬を一頭引き出し、鞍もつけずに跨ると、西の城壁へと走った。
壁にもたれ酒盛りしていた夜警の兵たちが、不知火を見て慌てて姿勢を正す。
不知火はそれを無視し、荒野へと禽馬を進める。
誰かが呼び止めたが、構わず走り出す。
(――人影?)
気付いた瞬間、本能的に立ち止まり身を屈めた。
頭のすぐ上を、風切り音とともに何かが翳めた。
「ほぅ…よく避けたな」
野太い声が響く。相手からは、街の明かりを背にした不知火が見えているようだ。
不知火は、周囲に適当に炎を放った。いくつかが枯れ草に燃え移り、青白い灯りが周囲を照らした。
騎馬した大柄な男が見えた。
脂ぎった顔。らんらんと光る眼。乱れた長い黒髪。
首にかけているのは、髑髏の首飾りか。
鎖鎌が、炎にぎらりと光った。
「獄皇か」
「不知火か」
言葉が重なった。
大男は答えず、にやりと笑った。
(…俺を知ってんのか)
不知火は、大剣で山脈を指した。
「あそこに城を作ってんのも、お前か」
「まあな。数ある家の一つに過ぎんが」
大男が、不知火に倣い、鎌で燈都を指し示す。
「あそこも、俺の家にする」
笑いながら、不知火は大剣を構えた。
「やらねぇよ」
「いいや、もらう」
二人の間を、土煙を巻き上げながら風が吹き抜けた。
枯れ草が燃え尽き、次第に炎が弱まる。
大男が、歯を剥き出して笑った。
「今日は様子を見に来ただけだ。一月後、二千連れて来る」
禽馬を翻す。
「…会えてよかったぜ」
炎が消える。
暗闇の中、蹴爪の音が遠ざかって行った。
二千と聞いて、仲間も兵も青くなったが、怯えていても始まらない。
皆で、粛々と軍備を整えた。
だが、秋が過ぎ、冬になっても、獄皇は現れなかった。
南衡嶺山頂が、雪で覆われる。
紅蓮は本堂の前に立ち、空を見上げた。
吐く息が白い。
分厚い雲を通して、辛うじて太陽が見える。
――今日も雪が降るか。
かじかむ両手を擦り合わせたとき。
西の空が急に暗くなった。
空気が重くなる。
濃い闇が、空を埋め尽くしながら迫って来る。
紅蓮は立ったまま目を見開いた。
(――同じだ。あのときと)
「何かあったか」
雷霆が、転がるように庵から走り出た。
目を剥いて、紅蓮に並ぶ。
西の果てを覆うどす黒い雲に、亀裂が入るのが見えた。
「……龍が…」
雷霆の呟きが、途切れた。
闇が晴れるまで、三日かかった。
(奈落の方角だったな…)
雪に包まれた山頂から、紅蓮は西の空へ目を凝らした。
あの闇が夢だったかのような、澄んだ冬空が広がっている。
ここからは伺い知れないが、奈落では大変な惨劇があったに違いない。
書庫から消えた禁呪の書を、思い浮かべる。
――あれは、法嶽だったのか?
違うのならば、一体誰が。
このままで終わる筈がない。
紅蓮は、亡き友に向かい呟いた。
「なかなかに、理は整わぬものだな…閻魔よ」
暗黒の空と燃え盛る龍にどよめいたのは、燈都も同様だった。
界門が埋まった日の記憶が、皆の胸を苛む。
獄皇が来ないことと、あの龍は、無関係ではないだろう。
奈落で、何かが起きた。
不知火は西門の外に立ち、風の吹きすさぶ荒野を見据えた。
獄皇が死んだ、との噂が届いたのは、冬の終わりだった。




