第5章 第3幕 不知火
大猪の突進による外壁の被害を、不知火は焔とともに見に行った。
「壁が完成して以来、これで三度目だぜ」
焔が舌打ちをする。
「目的がわからんから、対処のしようがねぇな」
「目的なんて、ないんじゃねぇのか?」
牙を研いでいるのか、頭蓋骨でも鍛えているのか。南衡嶺の断崖に向かって何度も突進するのを見たこともあるから、本当に何も考えていないのかもしれない。
不知火は瓦礫を乗り越え、荒野を見回した。敵影も魔獣の姿もないが、油断はできない。
「とりあえず、建て直すまでは見張りを増やしておくか」
そのとき、街のほうから銀狐が駆けて来た。
「おーい、焔!大変だ。繭が産気づいたってよ!」
「ほんとか」
一歩踏み出して立ち止まり、焔は不知火を振り返った。
「見回りなら、あとはやっとく。早く行ってやれよ」
不知火が笑うと、すまん、と言って銀狐とともに駆け出した。
この二年で、黒鉄には四人目の子が生まれ、焔は繭と所帯を持った。銀狐が、酒場の女将の氷雨を射止めたときには、仲間内にどよめきが起こった。だが、軽くあしらわれ照れ臭そうに笑う銀狐は、微笑ましかった。
不知火の時間だけが、止まっていた。
二年前、双蛾はもう戻らないと告げると、皆驚き、嘆いた。
不知火は虚勢を張り、それまで以上に燈都の発展に力を尽くした。
増える人口に対応して建物を高層化し、嶺州に倣って法を整えた。
双蛾という戦力が減った分、兵を鍛え、前線に出られる部隊を複数作り、輪番制を敷いた。
燈都はいつしか、嶺州をも凌ぐ国家となった。
だが、不知火の心の底には、いつもほんの少しの寂しさが燻っていた。
双蛾の名を耳にしたとき、二人で過ごした場所を通ったとき、それは津波のように押し寄せる。
『不知火の女』になりたがる者は掃いて捨てるほどいたが、誰を抱いてみても心が満たされることはなかった。
焔と繭に、女児が生まれた。
数日空け、甘味堂で土産を見繕い、不知火は繭を見舞った。
出迎えた焔が、頭を掻く。
「俺だけ見回りにも練兵にも参加できず、すまんな」
「構わねぇよ。――おお、これが」
赤ん坊を抱きあげ、不知火は目を輝かせた。
「既に美人じゃねぇか。よかったな、どっちに似たんだ」
そう言って焔と繭を交互に見比べると、ふっと表情を和らげた。
「なんか、お前ら、お似合いだな」
焔が笑う。
「まぁ、こいつも昔は不知火、不知火って騒いでたが」
繭は頬を膨らませる。
「あんたで妥協してやったのよ。不知火は双蛾しか見てないし。どうせ今も引きずってるんでしょ」
「おい…」
慌てて焔が止めるが、もう遅い。
不知火はあからさまに落胆し、目元がみるみる情けなく曇った。
「あ…ごめん」
繭が口籠る。
「…いや。いいんだ」
不知火は赤ん坊を焔の腕に返し、立ち上がった。
「俺にはやるべきことがあるからな。外壁の修復も、今日で終わりそうだし」
拳を握り、前を見据える。
「お前らは休んでろ。行ってくる」
凛々しく言い残し、背筋だけは妙に伸ばして出て行った。
焔と繭は、無言で顔を見合わせた。
赤ん坊が小さく欠伸した。
夜が来る。
北東の見張り櫓から、不知火は平野を見渡した。
いつも通り、異常はない。
この櫓の下で双蛾と初めて唇を重ねたことを、ぼんやりと思い出す。
街のほうへ、目を向けた。
栄える市場、荒くれ者たちの笑い声、消えない灯り。
自分のやってきたことに、間違いはない。
北衡嶺の守りが崩れた話は、その後聞かない。
獄皇の噂は時折耳にしたが、今のところ魔境へ進出してくる様子はない。
人界側も、この二年は静かなままだ。
燈都が界門を強固に守る限り、双蛾の故郷に危険が及ぶことはないだろう。
(…戻って来ねぇかな)
ふいに想いが募った。
「不知火、交代だ」
地上から黒鉄が呼びかけた。
梯子がもどかしく、跳び下りて隣に立つ。
「悪いが、少し留守にする」
不知火が言うと、黒鉄は意表を突かれた顔をした。
「どこ行くんだ」
「ちょっとな」
呼び止める黒鉄を残し、不知火は厩舎へと走った。




