第1章 第8幕 理
そこは、市街地と農村の境の、暗い林の中だった。
寝起きするのに足るほどの、小さな小屋。
老僧は腰を屈めて中へ入り、酒瓶を手に戻って来た。
小屋の外の卓の前で片手を上げると、急に風が吹き、卓に積もった落ち葉を吹き散らした。
そのまま腰を下ろし、老僧は三つの盃になみなみと酒をついだ。
「まあ、座るがよい」
言うが早いか、盃をあおる。
閻魔達はおずおずと卓についた。
「…じいさん、見かけによらず飲める口だな」
弁慶が盃を手にとると、老僧はニヤリと笑った。
「じいさんではない。紅蓮と呼んでもらおう」
林の向こうに、天元の街の明かりがチラチラと揺れていた。
「ここで暮らしているのか」
閻魔が尋ねた。
「たまに立ち寄る程度だ。黒稜院におらぬ時は、あちこちを歩き回っておるのでな」
紅蓮は早くも酒を注ぎ足している。
「黒稜院…ということは、天衡道本山の僧か。外界へ下りて来るものとは、思わなかった。…酒を飲む、とも」
閻魔が言うと、紅蓮は皮肉な笑みを浮かべ、また盃を傾ける。
「形にとらわれるな。理など、目に見えるものではない」
天衡道――衡嶺山脈の頂、黒稜院と呼ばれる本山に籠もり、理を究めると聞く。
「…ずっと考えている、と言っていたな」
閻魔は、紅蓮を再度見つめた。
幾筋ものしわが刻まれた顔に、鋭い眼光。
研ぎ澄まされた気配だけが際立ち、年齢は読めない。
「集め、選び、整える――王は、そう言っておったろう」
「なぜそれを」
「何度も聞いてきた。ずっと昔から、な」
一瞬視線が遠くなる。
その目を天元の街並みへ移す。
「それが天元の理ならば、おぬしの理は何だ」
理――。
初めて会った時も、その言葉を聞いた。
「理とは…正しき信念、のようなものか?」
率直に尋ねる。
「まあ、今はそれでよい。言うてみよ」
閻魔は、自分の手を見た。
手の届くみんなを救う――それだけでやってきた。故郷でも、暁の村でも。
蛇蝎はそれを一蹴したが、自分の原点はやはりそこだ。
「わしの理は、手を伸ばし続けることだ」
視界の隅で、弁慶が頷くのが見えた。
紅蓮も頷く。
「だが、それが届かなくなったと感じ、この国を見に来たのであろう」
そこまでお見通しか。
「それで、どうするのだ。天元のやり方を、持ち帰るのか。集め、選び、整えるのか?」
「そうはしない。蛇蝎とは違う道――皆を救える道を探す」
閻魔は即答した。
手を伸ばすことを、諦めるつもりはない。
紅蓮が、閻魔を見据えた。
「そういう道があるのかどうか、わしにはわからん。
皮肉なものだがな――歴史上最も栄え、長く続いてきたのは、この天元なのだ」
胸の熱が、すっと引いた。
蛇蝎の言葉が蘇る。
閻魔に向かい、『そういう者が国を壊す』と言った。
紅蓮が目を伏せた。
「だから、ずっと考えておるのだ。天元に、理があるのか、とな」
閻魔は、また掌を見た。
握り、開く。
手の届く範囲は限られる。それはわかっている。
今の自分には、暁の村でさえ、手に余りかけている。
だが、はみ出た者、こぼれた者を、救うことを諦めたくはない。
目を閉じる。
村を出て、ここに至る道のりを思い出した。
通り過ぎてきた国や町にも、手掛かりがあった。
役職の分担、市の運営、軍の編成――
仕組みを作れば、手は届く筈だ。
それを学びに来た。
だが――ここにはない。
閻魔は目を開けた。
「手を、貸してほしい」
真っ直ぐに紅蓮を見つめる。
「わしは、手を伸ばすのを諦めない。
そのための仕組みを作りたい。
そなたは多くの国や町を見てきたのだろう。
わしの理に――力を貸してくれぬか」
閻魔は頭を下げた。
紅蓮は、盃を置き、閻魔へと向きなおった。
「…どこまで、手を伸ばすのだ」
閻魔はゆっくりと頭を上げる。
どこまで?
届かぬなら、さらに伸ばす。
「届く限り、どこまでも――」
飢え、貧困、戦。取り除けるなら、取り除く。
天元の光の中で、影に怯えて生きる人々――いつの日か、彼らのことも救えたら。
次第に、思いが一つに収束していった。
「願わくば、天元までも」
弁慶が息を飲む。
紅蓮は、見定めるように閻魔の目を見た。
やがて、ふっと目を細める。
「――欲張りだのぅ」
空になった三つの盃に、酒を注ぎ直すと、笑みを浮かべた。
「見てやろう。おぬしの理が、どこまで届くのか」
閻魔は小さく頭を下げ、盃を掲げた。




