第1章 第7幕 異端
見事な建築美を誇るその城の、最奥。
幾重もの回廊と扉の先に、蛇蝎の居室はあった。
そこへ至るにつれ、人の気配は途絶え、足音さえ壁に吸われていく。
一人の兵士が、扉を叩いた。低い音がこだまする。
扉が開く。兵士は恭しく敬礼した。
「蛇蝎様…地方の領主が、謁見を求めています。いかがなさいますか」
蛇蝎は玉座に深く腰掛け、金の盃を傾けていた。
口元はうっすらと微笑んでいるが、その瞳は底知れない。
兵士はごくりと唾を飲み、主君の言葉を待った。
静けさに喉がひりつく。
長すぎる沈黙に耐え兼ね、追い返しましょうか、と口を開きかけたとき、
「通せ」
興味もなさそうに、蛇蝎は短く言い放った。
「はっ!」
素早く敬礼し、兵士が下がる。
回廊をいくつも曲がり、ようやく呼吸が戻ってきた。
大手門の前で控える、あの男。
(殺されずに帰れるといいが…)
兵士は思わず祈った。
「入れ」
くぐもった声が聞こえた。
閻魔は、そばに控える弁慶に目配せをした。
「…行って来い」
低く言う弁慶に向かって頷き、冷たい扉を押し開けた。
一人、進み入る。
背後で扉が重く閉じる。
両脇には、置物のように直立した衛兵。
閻魔は跪いた。
「此度は謁見のお許しをいただき、ありがたく存じます。私は暁の村の領主、閻魔と申し…」
「ああ」
遮られ、顔を上げる。
蛇蝎は手元の盃から閻魔へと、ゆっくり視線を移した。
「思い出した」
わずかに口角が上がる。
「死ぬべき者のために、声を上げかけた…あの愚か者か」
その瞬間、あの音のない処刑が脳裏に蘇った。
用意してきた言葉は、消えた。
閻魔は姿勢を正し、息を吸った。
「愚かで結構だ。聞きたいことがあって、来た」
脇の衛兵がピクリと動いたが、蛇蝎は動こうともしない。
「ほぅ……申してみよ」
閻魔は拳を握りしめた。
「なぜ、あの男は死なねばならなかった。救えたはずだ」
蛇蝎は閻魔から視線を外さず、酒を一口飲んだ。
唇を舐める。
一瞬その顔が、蛇と重なる。
「救えた?誰がだ――お前がか?」
「違う。お前の話だ!
なぜ、手の届く者を救わない!」
衛兵がまた動くが、蛇蝎はわずかに手を動かし、制した。
しばし、閻魔を観察する。
閻魔も、無言でその目を睨み続ける。
最初に見たときと同じ、底知れぬ闇のような目だ。
ふいに、蛇蝎は鼻で笑った。
「なぜ手が届くなどと思う?
いや――なぜ、手を伸ばす必要がある?」
閻魔は言葉を失った。
なぜ手を伸ばすのか。
考えたこともなかった。
当たり前だと思ってきた。
「お前は…国王ではないか。この大国を――理想郷を、あまねく統べる者ではないか」
閻魔は息を継ぎ、声を落とした。
「わしは――本当は、知りたくて来たのだ。
村が…国が拡大しても、隅々《すみずみ》まで手が届く方法を。
理想郷と呼ばれる天元でならば、その仕組みがわかると思った」
初めて興味をひかれたように、蛇蝎がわずかに身を乗り出した。
「理想郷の仕組みか――教えてやろうか」
静かに盃を上げ、閻魔のほうへ向けた。
「選別するのだ。残すものと、捨てるものを」
その手がゆらりと動く。
空の盃が宙を舞い、閻魔の足元に落ちた。
キン、と乾いた音が床に響く。
「集め、選び、整える――それが統治というものだ」
肘掛けに体を預け、余裕のある笑みを浮かべる。
「はみ出すものを無理に戻せば、国の形が歪む。
救おうなどと考えるな。
――手など、伸ばすな」
閻魔の拳に、汗が滲む。
(…手を、伸ばさない?)
暁の水路が、瞼に浮かんだ。
田畑を見回れば、村人がこちらへ手を振る。
子供たちは、飢えることなく走り回る。
(選別する…?)
捨てていいものなど、ない。
「話は終わりか?」
蛇蝎は、脇に控える侍従に手を差し出した。新しい盃が、静かに置かれる。
酒が注がれる音だけが、室内に響いた。
「わしは…」
閻魔は拳に力を入れた。
「お前とは違うやり方でやる」
顔を上げ、もう一度蛇蝎に向き合った。
「手を、伸ばし続ける」
蛇蝎の目が細く歪む。
また一口酒を飲むと、口元だけで薄く笑った。
「――そういう者が、国を壊す」
閻魔は蛇蝎を正面から見据えた。
が、蛇蝎は急に興味を失ったように、片手を挙げた。
「もうよい。下がれ」
衛兵が進み出た。
閻魔の眼前を遮るように、無言で立つ。
「――お引きください」
低い声だった。
閻魔は動かなかった。
歯を食い縛る。
この男は、何も感じていない。
――わしの言葉など、届いていない。
踵を返す。足取りが重い。
扉の前で、閻魔は一度だけ立ち止まった。
振り返る。
蛇蝎は、もうこちらを見ていない。
その横顔に、わずかな笑み。
扉が開かれた。
閻魔は前を向くと、振り向かずに外へ出た
王の間から出て来た閻魔に、どうだった、と声をかけようとして、弁慶は思わず口を噤んだ。
見たことのない険しい顔。
何も聞けないまま、城を後にする。通りの喧騒が、他人事のように遠く感じられた。
宿に着いてからも黙り込んだままの閻魔に、さすがに痺れを切らして弁慶は尋ねた。
「なあ、どうだったんだよ」
閻魔はようやく我に返り、弁慶を見つめ返した。
「ああ、すまなかった。しかし…どこから話したものか…」
歯切れの悪い閻魔に、こりゃあ一度気分を変えてやらねぇと、と弁慶は苦笑した。
賑やかな街の酒場。
閻魔は話し終えると、乾いた口元を湿らすように、酒を飲んだ。
今度は弁慶が無言になる番だった。
酒卓の上の肴は、手つかずだ。
「…わしのほうが、間違っているのだろうか」
閻魔は率直に聞いた。
弁慶は腕組みしたまま考えていたが、やがてぼそっと呟いた。
「それじゃあよぅ…はみ出した人間は、どうしたら報われるんだよ」
選ばれず、はみ出したものは、簡単に捨てられる。
驚くことに、この国の人間は、それを受け入れている。
影に怯えながら、光の中で生きている。
閻魔の横から、ふいに声がした。
「ここに―――天元に、理はあったか?」
はっとして顔を上げる。
いつの間にか、そこに老僧がいた。
周囲のざわめきなど、気にも留めぬ様子で。
閻魔は、視線を落とし、答えた。
「…あると思って、来た。だが、今は、わからん…」
老僧は、ふっと笑った。
いつものように謎めいた言葉を残して立ち去るかと思いきや、同じ卓に腰を下ろすと、弁慶の盃を勝手に取り、酒をついだ。
「おい、俺の…!」
制止する弁慶を無視して飲み干すと、閻魔を見つめた。
「……わしも、それを、ずっと考えておる」
何か言おうと閻魔が口を開きかけたとき、店主が小走りにやって来た。
「お客さん達、さっきから時々聞こえるけど、なんだか物騒な話をしてるじゃねぇか。頼むから、よそでやってくれよ」
ソワソワと辺りを気にする店主に、三人は顔を見合わせる。
先に立ち上がったのは、老僧だった。
「…場所を変えるか。わしの庵に案内しよう」




