第5章 第2幕 天元
那由多の村が洛平の侵攻を受けた、との報せが閻魔に届いたのは、すっかり事が済んだ後だった。
居合わせた双蛾が、軍の半数を単身で退けたと聞き、驚く。
那由多の無事に安堵するとともに、双蛾を懐かしく思い出す。
星占の死をともに悼みたいという思いが、ふいに胸を突く。
だが、厳密には天元領ではないあの村と、天元を離れ燈都の人間となった双蛾。会いに行くのは憚られた。
そもそも、天元を離れられる状況ではなかった。
洛平に、那由多の所在を漏らした者がいる。思うところはあるが、確証はない。
小国の侵攻が激化し、城下にもたびたび戦火が上がる。
差出人のわからぬ飛隼の文が、北衡嶺の防衛線の脆さを警告してきた。その筆跡に、紅蓮の顔が浮かぶ。話したいことが数多くあるが、今は手が届かない。
辛いとき、そばで支えてくれた星占は、もういない。
守るために戦い続けねばならない日々が、閻魔を蝕んでいく。
身を削るように職務へ打ち込むうち、二年が過ぎようとしていた。
弁慶は、少数の兵を率いて内乱を鎮め、城に引き上げた。
部下を労い、素早く湯を浴びる。
自室へ戻ると、書類の束を手に取った。宗烈から今朝渡されたものだ。秘密裏に調べ上げた軍部の不穏分子が、詳細に記載されていた。頭に叩き込み、燃やして捨てた。
卓の前に座り、大きく呼吸する。
四天王が皆いた頃は、戦略や練兵のことだけ考えていればよかった。
閻魔と出会うまで読み書きさえ覚束なかった自分に、今の任は重い。
だが、政治にも通じねばならない。
全て把握せねば、閻魔を守り切れない。
「間もなく、軍義の時間か…」
弁慶は呟くと、両手で頬を叩き、立ち上がった。
夜も更ける頃、ようやく軍義は幕を閉じた。
桐薫は昼の内乱発生の責任を宗烈に押し付けようと躍起だったが、すぐに鎮圧し大きな被害もなかったことを、閻魔はむしろ褒め称えた。
皆が立ち去る。いつものごとく、閻魔と弁慶だけが残る。
なかなか立ち上がらず、片手で目頭を揉む閻魔に、弁慶は声をかけた。
「たまには、酒でも飲まんか」
閻魔が顔を上げた。目の下の隈が深い。
「…そうだな。そうするか」
疲れたような笑み。
よし、と勢いをつけ、弁慶は立ち上がった。
「久々に、城下に繰り出すか」
「いや」
腰を上げず、閻魔が言う。
「これだけ戦火が広まれば、わしが出歩くのをよく思わぬ者も、今は多かろう」
弁慶は口を噤む。
ふいに、昔、街の定食屋で卓を囲んだことを思い出した。星占や那由多も一緒だった。
「わしの部屋で飲もう。――どうせ誰もおらん」
閻魔は低く言うと、ようやく立ち上がった。
静かな部屋で、向き合って盃を交わす。
窓から、城下が見える。
かつて不夜城とも呼ばれた天元だが、今は灯りが少ない。
西の山並みも、南に広がる平原も、夜闇に包まれ見えなかった。
「皆、向こうにいるのだな…」
南に目を向け、閻魔が呟いた。
弁慶は立ち上がり、窓辺に寄った。
閻魔が追い込まれるのは、自分のことより辛い。
耐えても、耐えても、次々に困難が訪れる。
しばし夜空を見上げ、振り返ると、閻魔は卓に伏して眠っていた。
弁慶は寝台から毛布を取った。
枕元に、幼い頃の那由多が描いた、閻魔と星占の絵があった。
弁慶は閻魔の肩に毛布を掛け、静かに部屋を後にした。
この先もまだ、受難が続くのかもしれない。
紅蓮も、不知火も、双蛾も去った。
星占と那由多には、手が届かない。
(俺だけは…)
暗い回廊を歩きながら、拳を握った。
(最後まで、閻魔の力になる)
考えかけ、立ち止まる。
最後など――
違う。
いつまでも、ずっとだ。
一人頷くと、再び歩き出した。




