第5章 第1幕 魔境
黒稜院で大導士として傅かれて暮らしていた頃、法嶽は、山頂から西の荒野を見下ろすことがあった。大抵は雲と土煙に阻まれ何も見えなかったが、地表まで見渡せることが稀にあった。醜く巨大な生き物が跋扈し、集落などほとんど見えない。どんな下賤な人間が住む場所かと、嘲笑ったものだった。
まさか自分が、魔境で細々と食い繋ぎ、生きていくことになろうとは。
全てを捨て、妙艶とともに白嶺院を後にした。
もはや人界に居場所はなく、すぐ死ぬ覚悟で魔境を選んだ。界綴りの糸で互いの体を支えながら、這うように崖を下った。
荒野に降り立つとすぐに、謎の生き物の群れに襲われた。野犬のようだが、ところどころ肉が削げ落ち、まるで骸骨だ。涎と腐臭を撒き散らし、飛びかかってきた。
いつ死んでもよいと言い合ってきたが、いざとなると恐怖が勝った。二人で炎や竜巻を闇雲に放ち、何とか群れを退けた。
――死にたくない。
汗と泥に塗れながら、彼方に見える集落の灯りを必死に目指した。
珍しいものでも見るように、人が集まって来た。数珠をくれてやると、喜んで住居や食料を提供した。衣類も言葉遣いも粗野で卑しい者たちだが、それなりに親切だった。
ここで余生を送るのも一興、と思い始めた矢先、野盗が集落を襲った。
命からがら逃れ、途法に暮れつつ荒野を彷徨う。何とか別の集落へ辿り着く。
装飾品を手放し、術で働き、糧を得る。暮らしに慣れたと思えば、野党や魔獣の襲撃に遭う。生き永らえる意味も見出せぬまま、いくつかの集落を渡り歩いた。
妙艶は、心の支えだった。
若き頃は孤独に理を追求し、いつからか権力ばかりを目指してきた。愛する者とともに生きる幸福を、法嶽はこの歳で初めて知った。
寺院や人界がどうなったかなど、知らぬ。ただ二人、寄り添って生きていければ、それでよいと思えた。
あるとき、荒野で生き倒れている若者を見つけた。
ぴくりとも動かず地に伏している。血に濡れた足跡が、赤土の大地に続いていた。
助け起こすと、息があった。
血と泥に塗れてはいるが、端正な顔立ち。まだ少年のようだった。
術で介抱してやると、目を覚ました。
少年は禍月と名乗った。
二人に礼を言い、辺りを見回すと、諦めたように座り込んだ。前髪に少し隠れた切れ長の瞳が耽美で、法嶽は一瞬ぞくりと震えた。
「親はないのか」
法嶽が問うと、禍月は目を伏せた。
「親にやられた」
妙艶と目を見合わせる。
魔境の荒廃を数多く目にしてきたが、どこへ行っても、親子の情だけは人界と変わらなかった。
禍月がとても哀れに思えた。
「帰る場所はあるのか」
「ない…奈落から来たんだ。もう帰りたくない」
奈落――耳にしたことはある。砂漠を越えた西の果て。魔境の人間さえ近付かぬという戦乱地帯だ。
「…これから、どうするのだ」
禍月は傍らの木に寄りかかり、ため息をついた。
「…どうもしない。せっかく助けてもらったけど、別にもう死んでもいいんだ」
法嶽は、胸の潰れる思いで、改めて禍月を見た。
汚れて擦り切れた衣服。腰の刀。どんな場所で生きてきたのか。
救ってやりたいと思った。
妙艶が歩み寄り、禍月の胸に手を置いた。
驚いた顔の禍月の前で、妙艶は目を閉じる。
界綴りの秘術を授けてやっているのだ、と法嶽にはわかった。
自分も、妙艶からこうして伝授された。地を伝わり何かが体に流れ込むあの感覚は、忘れられない。
「今…何をした?」
妙艶が手を離すと、禍月は恐る恐る胸を見下ろした。
妙艶が微笑む。
「困ったら、この力をお使いなさい。――このように」
印を結び念じると、二人の横に水が湧いた。
禍月は呆気にとられ、妙艶と法嶽を交互に見つめた。
「あんたら、何者なんだ?何処から来た?…魔境の人間じゃないだろう?」
「人界と呼ばれる所から。こう見えて昔は、地位もあったんじゃよ」
法嶽は皮肉な笑みを浮かべ、肩に掛けた荷の袋を掲げて見せた。中には禁呪の書が入っている。
「強力な術だって、持っておる。だがもはや――使うことなど、ないだろうが」
「…強力な術って?」
「なんと、龍を呼べるのだ。全てを焼き尽くす龍をな」
法嶽は笑ってみせた。ささやかな自慢のつもりだった。
禍月の瞳が妖しく光った。
「…俺にも、使えるかな」
「修行を積めばな。――しかし」
禍月が立ち上がった。
初めて、法嶽の胸を恐れが過ぎった。
「それ、俺にくれよ」
「いや…これは…」
禍月が近付く。
法嶽が後ずさる。
妙艶が目を見開く。
禍月が刀を抜いた。
「駄目って言われても、もらうけどな」
刀が、鈍く光った。




