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天元戦記  作者: yakiniku1010
第5章
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第5章 第1幕 魔境

黒稜院《こくりょういん》で大導士《だいどうし》として傅《かしず》かれて暮らしていた頃、法嶽《ほうがく》は、山頂から西の荒野を見下ろすことがあった。大抵は雲と土煙に阻まれ何も見えなかったが、地表まで見渡せることが稀にあった。醜く巨大な生き物が跋扈《ばっこ》し、集落などほとんど見えない。どんな下賤な人間が住む場所かと、嘲笑ったものだった。

まさか自分が、魔境《まきょう》で細々と食い繋ぎ、生きていくことになろうとは。


全てを捨て、妙艶《みょうえん》とともに白嶺院《はくれいいん》を後にした。

もはや人界《じんかい》に居場所はなく、すぐ死ぬ覚悟で魔境を選んだ。界綴《かいつづ》りの糸で互いの体を支えながら、這うように崖を下った。

荒野に降り立つとすぐに、謎の生き物の群れに襲われた。野犬のようだが、ところどころ肉が削げ落ち、まるで骸骨だ。涎《よだれ》と腐臭を撒き散らし、飛びかかってきた。

いつ死んでもよいと言い合ってきたが、いざとなると恐怖が勝った。二人で炎や竜巻を闇雲に放ち、何とか群れを退けた。

――死にたくない。

汗と泥に塗れながら、彼方に見える集落の灯りを必死に目指した。


珍しいものでも見るように、人が集まって来た。数珠《じゅず》をくれてやると、喜んで住居や食料を提供した。衣類も言葉遣いも粗野で卑しい者たちだが、それなりに親切だった。

ここで余生を送るのも一興、と思い始めた矢先、野盗が集落を襲った。

命からがら逃れ、途法に暮れつつ荒野を彷徨《さまよ》う。何とか別の集落へ辿り着く。

装飾品を手放し、術で働き、糧《かて》を得る。暮らしに慣れたと思えば、野党や魔獣《まじゅう》の襲撃に遭う。生き永らえる意味も見出せぬまま、いくつかの集落を渡り歩いた。

妙艶は、心の支えだった。

若き頃は孤独に理《ことわり》を追求し、いつからか権力ばかりを目指してきた。愛する者とともに生きる幸福を、法嶽はこの歳で初めて知った。

寺院や人界がどうなったかなど、知らぬ。ただ二人、寄り添って生きていければ、それでよいと思えた。


あるとき、荒野で生き倒れている若者を見つけた。

ぴくりとも動かず地に伏している。血に濡れた足跡が、赤土の大地に続いていた。

助け起こすと、息があった。

血と泥に塗《まみ》れてはいるが、端正な顔立ち。まだ少年のようだった。

術で介抱してやると、目を覚ました。

少年は禍月《かげつ》と名乗った。

二人に礼を言い、辺りを見回すと、諦めたように座り込んだ。前髪に少し隠れた切れ長の瞳が耽美《たんび》で、法嶽は一瞬ぞくりと震えた。

「親はないのか」

法嶽が問うと、禍月は目を伏せた。

「親にやられた」

妙艶と目を見合わせる。

魔境の荒廃を数多く目にしてきたが、どこへ行っても、親子の情だけは人界と変わらなかった。

禍月がとても哀れに思えた。

「帰る場所はあるのか」

「ない…奈落《ならく》から来たんだ。もう帰りたくない」

奈落――耳にしたことはある。砂漠を越えた西の果て。魔境の人間さえ近付かぬという戦乱地帯だ。

「…これから、どうするのだ」

禍月は傍らの木に寄りかかり、ため息をついた。

「…どうもしない。せっかく助けてもらったけど、別にもう死んでもいいんだ」

挿絵(By みてみん)

法嶽は、胸の潰れる思いで、改めて禍月を見た。

汚れて擦り切れた衣服。腰の刀。どんな場所で生きてきたのか。

救ってやりたいと思った。

妙艶が歩み寄り、禍月の胸に手を置いた。

驚いた顔の禍月の前で、妙艶は目を閉じる。

界綴りの秘術を授けてやっているのだ、と法嶽にはわかった。

自分も、妙艶からこうして伝授された。地を伝わり何かが体に流れ込むあの感覚は、忘れられない。

「今…何をした?」

妙艶が手を離すと、禍月は恐る恐る胸を見下ろした。

妙艶が微笑む。

「困ったら、この力をお使いなさい。――このように」

印を結び念じると、二人の横に水が湧いた。

禍月は呆気にとられ、妙艶と法嶽を交互に見つめた。

「あんたら、何者なんだ?何処から来た?…魔境の人間じゃないだろう?」

「人界と呼ばれる所から。こう見えて昔は、地位もあったんじゃよ」

法嶽は皮肉な笑みを浮かべ、肩に掛けた荷の袋を掲げて見せた。中には禁呪《きんじゅ》の書が入っている。

「強力な術だって、持っておる。だがもはや――使うことなど、ないだろうが」

「…強力な術って?」

「なんと、龍を呼べるのだ。全てを焼き尽くす龍をな」

法嶽は笑ってみせた。ささやかな自慢のつもりだった。

禍月の瞳が妖しく光った。

「…俺にも、使えるかな」

「修行を積めばな。――しかし」

禍月が立ち上がった。

初めて、法嶽の胸を恐れが過ぎった。

「それ、俺にくれよ」

「いや…これは…」

禍月が近付く。

法嶽が後ずさる。

妙艶が目を見開く。

禍月が刀を抜いた。

「駄目って言われても、もらうけどな」

刀が、鈍く光った。


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