第4章 第18幕 双蛾
断片的にもたらされる情報により、天元を襲ったのは、北衡嶺を超えて行った北崖党だと知った。
居ても立ってもいられず、双蛾が北を見に行くと言うと、俺も行く、と不知火はついて来た。
せり立つ山脈に沿って、禽馬で荒野を北上する。
山壁を抉って築かれた砦を、いくつか通り過ぎる。敵影は見えない。
かなり進んだあたりに、生き物の死骸が散らばっているのを見つけた。
食い荒らされ腐敗が進み、悪臭を放っている。
「…黒蹄が乗ってた牛だな」
不知火が呟いた。
世話する者がなくなり、死んだのだろうか。
山を見上げる。砦がある。人がいるのかは、わからない。山頂に小さく垣間見えるのは、寺院の塔頭か。
あんなところまで登れるのか?
――登ったのだろう。
(…星占を殺したのは、黒蹄だったんだ)
双蛾は確信し、唇を噛んだ。
「あのとき、俺がちゃんと仕留めておけばよかった。すまん」
禽馬を寄せ、不知火が言った。
双蛾は首を振った。
「不知火のせいじゃない。私が…」
言葉が続かなくなる。
私が、――どうすればよかった?
逃げる黒蹄を追えばよかったか。北崖党を積極的に討ちに出ればよかったか。
――天元を、離れなければよかったか。
辺りが薄暗くなり始めていた。
「帰ろう」
双蛾が言うと、不知火は頷いた。
人界側北面の砦は、順調に建設が進んでいた。
暑さも和らぎ、作業が捗る。
怒号が飛び交い、しょっちゅう喧嘩が起きるのも、いつもの燈都だ。
殴り合い、勝手に仲直りして、その場で盃を交わし始める。誰かが文句を言う。巻き込まれる。いつの間にか作業が止まり、夜になる。宴が始まる。
そんなどうしようもない日常に、双蛾も笑えるようになっていた。
だが、胸が騒ぐ。
魔境の脅威が、衡嶺山を越えて来る。
人界の誰も、考えていなかったことだ。
山脈の向こうに別の世界があることなど、普段意識さえしていない。
その常識が、覆されようとしている。
(…故郷も、危ないかもしれない)
篝火の下で繰り広げられる宴の向こう、北の空を、双蛾は黙って見つめた。
不知火が歩み寄る。
「戻ろうぜ。あいつら、ほっとけばそのうちその辺で寝るだろう。朝になったら叩き起こして、また始めればいい」
「風邪ひかないかな」
「ひかねぇだろ。馬鹿だからな」
双蛾は笑い、並んで城のほうへ歩き出した。
獄皇が奈落を出て魔境へ進出し始めた、との噂が流れたのは、その秋だった。
魔境の砂漠に点在する小さな集落。その一つから逃げてきた難民が、震えながら訴える。
「あれは人間じゃない。暴力の塊だ」
突然現れ、鎖鎌を振り回し、建物を破壊し、人を薙ぎ倒した。
屍の山に腰掛け、「今日からここも、俺の縄張りだ」と大声で笑ったという。
「こっちにも、来るんじゃねぇか」
銀狐が眉をひそめる。
「…お前、獄皇に勝てるか」
黒鉄が、不安げに不知火を見た。
不知火は面倒そうに頭を掻く。
「そんなのわからねぇよ、会ったこともねぇし。大体勝てると思うけどよ」
そのあと少し真顔になり、仲間を見回した。
「まあ、俺が負けても燈都が無事なように、西側もっと補強しとこうぜ」
「負けるとか言うなよ、らしくねぇなあ」
焔が不知火の背中を叩いた。そのあとで小さく呟く。
「心配になるだろ…」
俯いた焔を見て、不知火は笑った。
(獄皇が山を越えたら、故郷はどうなる…?)
双蛾は反射的に考え、それから苦笑した。
苦難の山越えより、まず狙うなら燈都だろう。
とにかくまずは界門を――燈都を守る。
変わりはない。それだけだ。
――晴れた川原。訓練用の巻き藁。無造作に置かれた木刀や木槍。
(ああ、またあの夢だ…)
何度も見たため、すぐに気付く。
十四歳の自分が、手刀を繰り出す。防がれる。右から蹴りが来る。腕で受ける。身を屈め、下から突く。相手が跳んで躱す。着地の前に、背後へ回り込む。両腕を胴に回す。体を逸らせ、裏投げに叩き落とす。呻き声が響いた。すぐさま身を翻し、反撃に備える。が、相手は体を起こすと、両手を上げた。
「参った、降参!」
土のついた、日焼けした顔。笑った口から白い歯が覗く。それが疾風だった。
どちらも親がなく、神楽に育てられた。十になる頃、相次いで家を出て、以来神楽を手伝いながらそれぞれに暮らした。
この頃、村は今よりさらに貧しかった。双蛾には親の記憶がないが、疾風の両親が野盗に殺されたのは六つの頃だった。たくさんの村人が殺された。そのときの惨劇は双蛾も覚えている。
神楽に引き取られてからも、先にいた双蛾に疾風が打ち解けるまで、半年はかかった。次第に、競うように学問や武芸に明け暮れ始めた。ともに書物を読み漁り、畑仕事の合間を縫っては稽古に励む。やがて武道では、村の大人が数人でかかっても適わぬほどとなった。
川原の土手の平たい岩に、小石で線を刻む。
「私のほうが、勝ちが多い」
双蛾が不敵な笑みを浮かべると、疾風が膨れ面で見返した。
「たった二つ差だろ」
「一つでも二つでも、勝ちは勝ちだよ」
「どっちだっていいよ」
疾風は小石を川に放り投げ、胴着の土を払った。
「二人でかかれば野盗だって倒せる、ってことが大事なんだから」
「それはもちろん」
双蛾が頷くと、口を広げて疾風が笑った。白い歯が眩しい。太陽のようだった。
「二人で、村を守ろうな。約束だ」
小指を差し出す。双蛾は微笑み、指を絡めた。
そのときだった。
禽馬のいななきが響いた。畑のほうではない、外からだ。
川下に、騎馬した数人の人影が見えた。川を遡り、近付いて来る。皆大柄で、汚れた衣服を着崩し、鉈や槍を肩に担いでいる。
「…野盗だ」
空気が張りつめる。二人は同時に剣を拾った。
「村には入れない。ここで止めよう」
剣の鞘を払い、疾風が低く言った。双蛾が頷く。
男たちが近付いた。全部で五人。
「なんだぁ?ガキか」
禽馬を下り、川原へ上がって来る。
「随分かわいらしいお嬢ちゃんもいるじゃねぇか。泣いて逃げなくていいのか」
下卑た笑いが起こる。
双蛾の前に疾風が立つ。二人同時に剣を構える。
「やんのか」
男が、担いでいた鉈を前に差し出した。刃先がギラリと光った。
――そこから、映像が途切れる。
刃が交錯し、火花が散る。疾風の腕が、剣ごと吹き飛ぶ。駆け寄る。阻まれる。男が双蛾を押し倒す。倒れた疾風が、双蛾の名を叫ぶ。男の槍が、その背を貫く――。
双蛾は飛び起きた。いつもここで目が覚める。
呼吸が荒い。胸が早鐘を打つ。全身に汗が滲む。
双蛾は膝を抱えた。
あのあと、乱れた衣服を整え、疾風の亡骸を背負い、腕を拾って帰った。どこをどう歩いたのか覚えていない。神楽は言葉を失い、双蛾を強く抱きしめた。枯れるほど泣き、二度と泣かぬと誓ったのだ。
布団に潜り込む。隣で眠る不知火の背に縋る。不知火がこちらへ寝返りを打つ。
「どうした。体、冷えてんな…」
目を閉じたまま、双蛾を抱き寄せる。
温かい。
ここにいれば、守られる。
だが、守られていては、駄目なのだ。
守ると約束したのだから。
自分の居場所は、どこだ。
どこにいれば、大事なものを守れるのか。
ここなのか。天元か。故郷か――。
星占は、那由多を庇って死んだと聞いた。身を犠牲にして、大切なものを守ったのだ。
(私は…)
不知火の胸に顔を埋めたまま、双蛾は答えを探し続けた。




