第4章 第17幕 天衡僧正
正理郷の寺院が焼けたとか、法嶽の行方が知れぬとか、本山に集まった導士連の連中はいちいち大騒ぎしていたが、今度は白嶺院の守りが破られたらしいと騒ぎ出した。騒ぐばかりで、詳細を把握する者は誰もいない。
知らぬことを知らぬまま論じることに、何の意味があろう。
幽蛉で知れることなど、限られる。
知りたければ、外に出ればよいのだ。
紅蓮が旅支度を整え、しばらく出かけると告げると、雷霆は興味もなさそうに、「土産を頼む」とだけ言った。
北衡嶺へ登る前に、天元城下の外れで宿を取った。
林の庵は残してあるが、人々の話を聞きたかった。
王妃が城内で殺されたと聞き、胸が詰まる。星占の遠慮がちな笑顔を思い出す。閻魔や那由多の心情を思うと、いたたまれなかった。
翌朝、汗ばむような残暑の中、岩山の参道へと踏み入った。
大導尼の寂峰、妙艶とは遥か昔に会った覚えがあるが、白嶺院を訪ねるのは初めてだ。
登山道のところどころに、亀裂や段差を認めた。禁呪の龍が暴れた際に山の一部が崩れたのは、南衡嶺と同様なのだろう。
夕刻近く、ようやく山門が見えてくる。
礼儀正しく出迎える沙尼や行尼は、皆武装していた。
「紅蓮殿か」
低い声がして、岩に似た佇まいの老尼が、境内の奥から歩み出てきた。
「これは寂峰殿。ちっとも変わっておられんな」
「そんなわけはあるまい。何十年振りと思うておられるのじゃ」
「そういう手厳しさも、変わっておらん」
紅蓮は笑みを浮かべた。
にこりともせず、寂峰は境内へと歩き出した。
「山の守りのことを聞きに来たのであろう。ついて来るがよい」
「…話が早くて助かる」
歩きながら、寂峰は周囲の尼僧たちに呼びかけた。
「地脈を乱さぬよう、心して術を保ち続けよ」
はい、と張り詰めた返事が響いた。
茶ではなく、冷えた湧き水を供された。
夏の山道の後に、染み入るようだ。黒稜院より、心配りが行き届いている。
「皆に声をかけておられたが、界綴りの秘術は、大導尼殿のみに秘匿されているのではござらんのか」
「…寂玄斎静峰」
質問に答えず、寂峰はぶっきらぼうに言い放った。
「此度、天衡尼正として名を賜った。今は大導尼ではない」
「なんと。寂玄斎殿、それはおめでたき儀」
紅蓮が頭を下げると、寂峰は払うように手を振った。
「やめよ。名など、どうでもよい。しかし、これで教義の解釈変更が可能となった。今後は大っぴらに、界綴りを広められる」
「何故、広めるのか」
「もはや、そうせねば山を守れぬからじゃ」
寂峰は、険しい顔で紅蓮を見た。
「先般、魔境から山を越えた山賊が、麓の天元に至り狼藉を働いたと聞く」
「むぅ…あれは魔境の輩の仕業であったのか」
星占の顔がまたよぎる。
「超えたのは、一握りの者たち。残りの者は地脈の糸で捕らえ、全て私が首を刎ねた。だが、禁呪の龍が山の地形を乱して以降、魔境側から登頂されたのは、実はこれで二度目じゃ」
紅蓮は腕組みした。
歴史的に長らく、人界は衡嶺山脈により魔境と隔てられ、界門だけが接点であった。山脈を越せるようになれば、人界の安寧は根底から覆される。
人界に住む者たちは誰も、自分たちの安全が、白嶺院により薄氷の上で守られていることなど知らない。
玄統の禁呪がもたらした影響など顧みもせず、黒稜院でくだらぬ舌戦に現を抜かす導士連が、改めて空虚に思えた。
「…わしらのほうで、できることはないものか」
「…そう仰せになってもな。さすがに秘術をそちらに渡すわけには」
紅蓮は、ふと思い出す。
「そう言えば、法嶽がその力を得たのではなかったか」
寂峰はため息をついた。
「あれは私ではない。妙艶じゃ。今頃は、二人がどこにいるのかさえ、わからぬ」
黒稜院に戻った紅蓮は、雷霆の房を訪ねた。
「土産の酒は買い忘れたがな。興味深い話を持ち帰ったぞ」
雷霆は狭い板の間に胡坐をかいて目を閉じたまま、いつにも増して仏頂面だった。
「雷霆?」
「…無相斎雷岳」
紅蓮が目を丸くする。
雷霆は静かに目を開け、紅蓮を睨みつけながら言った。
「わしを天衡僧正にすると、導士連が言うてきおった」




