第4章 第16幕 那由多
怖い夢を見て目が覚めると、いつもそっと両親の寝室の戸を開けた。
星占はすぐに気付いて起き上がり、那由多を布団に入れてくれた。
閻魔は大抵半分寝ぼけて、おぉ、よしよしと那由多を抱き締めた。頬ずりされると髭がちくちくしたが、那由多はそれが好きだった。
夢のことなどすぐ忘れ、両親の間で眠ったものだった。
今、毎晩夢を見て起きるが、星占はもういない。
閻魔は以前にも増して職務に追われ、遅くまで部屋に帰らない。
戸を開ける。
あれ以来警備が増やされ、部屋の外には常に護衛の兵士が立っている。
那由多の姿を見ると、どうしました?と微笑んでくれるが、何でもない、と那由多は部屋に戻る。
また微睡むが、結局同じ夢を見る。
星占の胸から吹き出す血を、頭から浴びる。閻魔が男たちを次々に斬り殺す。泣き叫ぶ閻魔の腕の中で、星占が動かなくなる。
それら全てが、真っ赤な視界の中で起きるのだ。
城内はもはや安全ではなく、一人では歩かせてもらえなかった。
那由多は椅子に腰かけ、机の上を見た。
差し入れられた子供向けの本が並ぶ。
その手前に、いつか弁慶にもらった木彫りの禽馬。
木炭と紙の束。
一番上には、那由多の描いた閻魔と星占の笑顔があった。
新しい紙を取り出し、木炭を手に取る。
何を描いていいかわからず、那由多はじっと紙を見下ろし続けた。
閻魔は、宗烈と桐薫が繰り広げる論戦を、じっと聞いていた。
国防の責任者でありながら野盗の襲撃を防げなかった宗烈を、桐薫が激しく叱責する。寧阿も同調し、宗烈の罷免を求める。
あの襲撃の実態は、調査が進むにつれ、少しずつ明らかとなった。驚くべきことに、野盗は、北衡嶺を超えて来たのだった。北崖党の話を思い出す。燈都のことばかり案じていた。人界の脅威になるとは、思ってもみなかった。
閻魔は立ち上がり、桐薫の弾劾を制止した。
「宗烈殿の責任ではない。山脈側から危機が及ぶなど、誰も考えて来なかった。あの状況の中、兵士たちは最善を尽くしてくれた。今後は、西側からの侵攻も念頭に、防衛線を引き直そう」
桐薫が渋々席に着く。寧阿は、分厚い瞼から見上げるように、陰湿な目を閻魔に向けた。
「…王権を脅かす禄珠様が身罷られ、内心喜んでおられるのではありませんか」
維辰が、椅子を倒して立ち上がった。
「寧阿殿!それはあまりにも…閻魔様は、奥方様を亡くされたのですよ!」
「維辰、よい」
閻魔は静かに言い、立ち上がった。
「今日はここまでとしよう。宗烈殿、弁慶と相談し、防衛体制を整備してくれ」
「…御意」
宗烈が頭を下げた。桐薫があからさまに舌打ちする。
閻魔は、静かに広間を後にした。
那由多の部屋へ向かう。
扉の前に立つ衛兵が、小さく敬礼した。閻魔は頷き、職務を労う。
扉を開ける。
那由多は、机に向かったまま、振り向かなかった。
閻魔は寝台の前の丸椅子を引き寄せ、隣に座った。よく星占がかけていた椅子だ。
「…眠れているか」
「…うん」
那由多は頷いたが、滑らかな頬に深い隈が刻まれている。
言うべきことがあって来たが、閻魔の心は痛んだ。
「神楽殿のところへ行く話だがな…」
那由多が顔を上げた。
「…行かなきゃ駄目?」
閻魔は口籠り、しかし、那由多の目を見て続ける。
「そなたも知っているだろうが、前よりもっと、ここは安全ではなくなってしまった。そなたをこれ以上危険に晒したくない」
那由多は立ち上がり、閻魔に抱き着いた。
「父上と離れたくないよ…」
「…わしもだ」
閻魔は、那由多の小さな体を抱きしめた。
「だがな。平和を取り戻して、迎えに行く。前にも言った通りだ」
「うん…」
その背を撫でてやりながら、ふと机上に目を留めた。
閻魔と星占を描いた、那由多の絵。
閻魔は、那由多を抱いたまま片手を伸ばし、絵を手に取った。
「この絵、前に星占が見せてくれた。本当に、よく描けておるな」
那由多は体を離し、じっと絵を見た。
「これは、わしが預かっておいてよいか?離れていても、いつでも星占とそなたを、思い出せるように」
頷いた那由多の目から、涙が零れた。
初めは静かに。
やがて溢れるように流れ出し、次第に那由多は泣きじゃくり始めた。
「あのね、父上…」
両手で目を拭いながら、絞り出すように言葉を繋ぐ。
「僕、父上が討たれたって聞いて、納戸を飛び出しちゃったんだ。そしたら、あいつらがいて…僕が出て行かなければ、きっと母上は死ななかった」
顔中をぐしゃぐしゃにして、那由多は言った。
「ごめんなさい」
閻魔は、再び那由多を抱きしめた。
「そなたのせいではない」
閻魔の目にも、涙が滲む。流れぬように、腹にぐっと力を入れる。
「わしこそ、もう一日早くそなたたちを神楽殿の元へ送り出していれば…残郷に行かなければ…蛇蝎のことなど放っておけば…」
星占と出会ってからの日々が、胸に押し寄せた。閻魔の破滅を、ずっと気にかけてくれていた星占。もっと真摯に耳を傾けていれば、何かが違ったのではないか。
「わしのせいだ。すまぬ…」
那由多の手が、閻魔の背中をぎゅっと掴んだ。
頬を寄せると、那由多が力なく笑った。
「…お髭が、ちくちくする」
閻魔はそっと顔を離し、那由多を見た。
涙を流したまま、那由多は微笑んでいた。
「…必ず迎えに来てね」
胸が潰れるのを堪え、閻魔は笑みを返した。
「勿論だ。待っていてくれ」
那由多が頷いた。




