第4章 第15幕 双蛾
双蛾は筆を置くと立ち上がり、出来上がった設計図の全体を確認した。
街の北側の崖面が、数日前から急に削れるようになった。
界綴りの問題なのか、理由は定かではない。
だが、またいつ元に戻るかも知れない。
砦を築くなら、突貫だ。
扉が開き、不知火が入って来た。
「お、できたか」
手に持っていた氷瓜の皿を置き、並んで設計図を眺める。
「ああ、ここは全部土で固めるわけだな」
不知火の指差す場所には、印を打ってあった。
落とし穴掘りで出た大量の土を、活用できないかと考えた。石灰と水で練ってみたら、扱いやすい粘土となったのだ。街の建材にも使えるだろう。
「これでやっと、北側も守備が整うな。万一、天元方面から何か来ても」
「うん――何も来ないほうが、いいけどね」
「まあ、そりゃあな」
不知火は軽く笑い、皿を中央に寄せた。
「少し休憩しようぜ。これ、甘味堂からの差し入れだそうだ」
瑞々しい果実へ同時に手を伸ばした。
指先が触れた。
不知火が素早くその手を取り、指を絡める。
見上げると、悪戯っぽく笑っていた。
双蛾も、つられるように微笑んだ。
扉の外に足音が聞こえ、慌てて手を離す。
焔が顔を出した。
いつになく深刻な顔。
「――どうした」
何も言わない焔に、不知火が尋ねた。
焔は重々しく口を開いた。
「…大変なことが起きた」
焔の報告を聞き、不知火の思考は一瞬止まった。
由々しき事態だ。
人界一の大国、その王城の中で、王妃が、賊に、殺害されたのだ。
一体何者が、何の意図で。防衛態勢はどうなっていたのか。ほかに被害は。
疑問は次々に湧く。燈都にも無関係の話ではない。
だが、今はただ、双蛾が心配だった。
皆もそれは同じで、仲間の視線が気遣わしげに双蛾へ集まっていた。
双蛾は顔色を失い、ただ立っている。
泣きそうだ、と思った。
何か言うべきだ。
だが、何を――
双蛾が顔を上げた。
「色々考えないといけなくなった。北の砦も、あれでいいのか…もう一度、考え直さないと…」
語尾が震えた。
双蛾の目が泳ぐ。
不知火のところで、止まった。
何か言いかけて口を開き、そのまま目を伏せる。
「…考えてくる」
静かに踵を返し、足早に部屋を出て行く。
不知火はそれを目で追った。
どうすべきかわからず、仲間のほうを見る。
行ってやれ、と焔が顎で示す。
不知火は拳を握り、双蛾の後を追った。
扉を開ける。
机に両手をついて、双蛾は、描き上げたばかりの設計図を見下ろしている。
その後ろ姿が、ひどく小さく見える。
手つかずの氷瓜の皿も、遠く見えた。
「天元でさえ突破されるなら、もっとこっちも隙を減らさなきゃ」
独り言のように言い、筆を取る。
手は、そのまま動かない。
墨が図面に垂れた。
不知火はただ立ち尽くした。
歩み寄って抱き締めてやりたかった。
だが、背中が拒絶しているように見え、近寄れなかった。
「…双蛾」
返事はない。
「…いつでも、寄りかかっていいからな」
動かない。
それ以上言うべき言葉を見つけられず、立ち去ろうとしたとき、双蛾が小さく言った。
「…ありがと」
もう一度双蛾を見る。
同じ姿勢のままだった。
不知火は静かに扉を閉めた。
考えてくる、と言ったものの、双蛾は何も考えられなかった。
筆を置く。
星占が死んだ。
なぜ?誰も守れなかったの?
自分がいれば、守れたのでは。
天元を離れるとき、なぜこの可能性を考えなかったのか。
閻魔は、那由多は、どうしているのだろう。
これが、破滅なのだろうか。
星占の顔が浮かぶ。
最後に天元で見た、穏やかな顔。双蛾に、幸せになってほしいと言ったのだった。
笑う顔。ちょっと怒って膨れた顔。未来を見るときの少し遠い目。自分には何もできないと、泣きながら打ち明けた顔。
村で迅の背に乗せてやったときの、嬉しそうにはしゃいだ顔。
幼い頃、いつも駆け寄って来て抱きついた、あの無邪気な顔。
旅立つ双蛾を見送ってくれた、涙をこらえたあの笑顔。
もう、見ることはないのだ。
図面の上に、ぽたりと水滴が落ちた。
それが涙だと、双蛾は気付いた。
村を守ると決めたとき、流さぬと誓った筈の涙が、とめどなく頬を伝っていた。
拭うこともできず、双蛾はただ、視界に滲む図面に目を落としていた。




