第4章 第14幕 天元
身支度を済ませ、星占は回廊から城下を見下ろした。
夏の日差しに、家々の屋根瓦が光って見える。
今日、故郷へ帰る。十年ぶりだ。神楽の顔が浮かぶ。
だが今の星占の胸にあるのは、故郷への懐かしさより、天元を離れる寂しさだった。
ここへ戻る未来は、まだ見えない。
(……戻って来ることが、できるのかな…)
近頃は、常に心に不安が宿り、落ち着かない。
双蛾のように、いつも凛としていたいのに。
「母上」
背後から、那由多が駆け寄った。
欄干に手をかけて身を乗り出し、街を眺める。
「僕もう一人でウマに乗れるから、母上が弁慶さんと乗るんだよ」
那由多が楽しそうなので、意表を突かれた。
「天元を離れるのが、寂しくないの?」
「全然。だって、すぐ戻って来るんだし」
夏の日差しに、那由多の顔が溌溂と輝く。
「父上、ずっと元気なかったけど、帰って来るまで僕が母上を守るって言ったら、笑ってた」
那由多の言葉に、星占の心も軽くなった。
那由多がそう言うなら、無事にまた帰って来られる。
そんな気がしてきた。
ふと、那由多が山脈のほうへ目を向けた。
「…今日、山が全部開いてるね。こんなの初めて」
星占も山を見る。何も変わりないように見える。
「どういうこと?」
聞き返そうと那由多を振り向いたとき。
急に世界が暗転した。
予言だ――。
咄嗟に欄干に手をついた。
回廊――見慣れぬ黒装束――刀――振り下ろされたその先に…
(那由多――!?)
血の赤――
そこで、視界が戻った。
「…母上?」
心臓が早い。
今のは、何だ。
那由多に、危険が迫っている――?
「那由多、すぐに来て」
星占は、目を丸くする那由多の手を取った。
でも、どこへ?
とにかく、まずは閻魔のところへ。
星占は那由多の手を引き、走り出した。
燦牙は、ほぼ垂直にきり立った崖を駆け下りながら、ちらりと背後を振り向いた。
謎の束縛を逃れたのは、自分のほか数人だ。
舌打ちし、眼下を見下ろす。
興奮に胸が躍った。
こんな大きな都が、この世にあったとは。
一時期こだわっていた界門の街なんか、目ではない。
奈落の人間全部より、もっとたくさん人がいるのではないか。
そして、あの城!
なんと立派な城だ。家臣はどれだけいるのか。
あそこを落とせば、この国の王になれるのだ――!
弁慶は、馬場で旅立ちの準備を整えていた。
星占と那由多を故郷に返す。閻魔は苦汁の決断を下した。
禽馬に鞍を取り付けながら、理想を掲げ閻魔とともに駆け抜けた日々に、思いを馳せる。
水路を引き、村人とともに村を立て直したこと。
何もなかった界門に、町を作ったこと。
悪政に苦しんでいた天元を、解放したこと。
閻魔の手が世界に伸びて行くのを、ずっと見てきた。
私欲に走ったり、正義を曲げたりしたことは、一度もない。
何故その閻魔が、こんな風に追い詰められねばならぬのだ。
唇を噛み、ふと街のほうへ目をやった。
煙が上がっている。
火事か。いや、近隣国の侵攻かもしれない。
手近の兵に声をかけ、ともに走り出す。
しかし、西とは。
天元の西に、国などない。西の国境は北衡嶺に接するからだ。
内乱という可能性もあるか。近頃は、国内にも油断は出来ない。
(よりによって、出発の日に…)
早く乱を鎮め、閻魔を安心させてやらねぇと。
弁慶は走りながら、剣の柄に手をかけた。
燦牙は大通りの中央を駆け抜けた。
派手な服を着たたくさんの人間が、油断しきって歩いている。
黒蹄の姿を目にし、大慌てで道を開ける。
血が騒ぎ、わけもなく群衆を切り捨てた。悲鳴が上がる。
逃げ惑う人混みが屋台を倒し、火の手が上がる。
痛快だ。
皆が俺を見ている。
城が近付く。
通りの奥から、兵士が駆けて来るのが見えた。
先頭の男は、やたらでかい。
こんな所で捕まってたまるか。
「散れ!城で集合だ!」
手下に声をかけ、道を塞ぐ人垣を斬って開き、脇道へ入り込んだ。
城が近付く。
兵士を吐き出したあと、門が閉まる。
馬鹿め。あんな正面から行くか。
燦牙は道の脇の垣根から、屋根に飛び移った。
屋根伝いに城を目指す。
兵士が騒ぐが、誰も追いついて来ない。
奈落なら、こんなことはない。人界なんて、余裕じゃねぇか。
燦牙は城壁を飛び越え、二階の回廊へ降り立った。
「王はどこだ!」
そばの扉を蹴り開ける。誰もいない。
奥から兵士が数人駆けて来た。斬り伏せる。
全然、大したことねぇ。
別の扉を開け放つ。ここもはずれだ。
廊下の奥で悲鳴が上がる。手下たちも辿り着いたか。
次の扉を蹴る。戸が外れ、内側に倒れた。埃が舞い上がる。
その奥から、ひっと息を飲む声がした。
豪華な服を着た鼠のような小男が、壁際に蹲っている。
当たりか。
「お前が王か?」
小男が、かくかくと小刻みに頷いた。
当たりだ!
燦牙は歯を剥き出し、剣を振り上げた。
三階の納戸の中で古道具に囲まれて座り、星占は震えながら那由多の肩を抱いていた。
隠れるなら、ここだよ!と、走りながら那由多が示した場所だ。
確かに、開き戸の取っ手は小さく、廊下側からはただの羽目板のように見えた。
戸の隙間から漏れる光が、足音とともに忙しなく明滅する。人が走り回っているのだ。
「大丈夫だよ。僕、ここで一回も見つかったことないんだ」
腕の中で那由多が自信たっぷりに言う。
こんな時なのに、その言い方がおかしくて、星占は小さく微笑んだ。
「たまに、どこにもいないと思ったら、こんなところで隠れんぼしてたのね」
「内緒だよ」
はにかむように那由多が笑った。
その肩を抱き締める。
怖くてたまらない。
閻魔の部屋へと駆け出したものの、すぐに城内が騒がしくなり、ここへ逃げ込んだ。
閻魔は無事だろうか。
まさか、これが破滅なのか――。
いや、過去に見えた燃える街や血に濡れた手、泣き叫ぶ弁慶…あれらは、おそらくまだ先のこと。まだ、回避できる筈の未来。
目をぎゅっと閉じる。
先ほど見えた光景が、頭から離れない。
刀がひらめく。
那由多の背が、赤く裂ける――。
あの未来だけは、絶対に覆さなければ。
那由多だけは、命に替えても守る。
小さな肩を抱く手に力を込めたとき、那由多が囁いた。
「母上は、僕が守るよ」
はっとして、那由多を見つめる。
暗闇の中、表情は見えない。
だが、かけがえのない愛しい顔が、ここにあるのだ。
言葉を返そうと星占が口を開いたとき、城のどこかで声が響いた。
「王を討ち取ったぞぉー!!」
時間が止まった。
声が耳を通り抜けたが、脳に浸透しない。
体が、理解を拒んだ。
「父上…」
腕の中で那由多が呟いた。
時間が動き出す。
那由多が、するりと腕をすり抜けた。
扉に手をかける。
「那由多、駄目――」
言葉にし終えぬうちに、戸が開き、光が流れ込んだ。
どさり、と、目の前で兵士が倒れるところだった。
那由多の前に、黒装束の男が三人、立っていた。
そんな筈はねぇ。
弁慶は階段を駆け上がった。
王を討ち取った、と聞こえた。
嘘に決まってる。それか、聞き間違いか。
閻魔が、あんな奴らにやられるわけねぇ。
階段の先に、大柄な男が見えた。
片手に刀、片手に――首。
背筋が凍った。
「うおぉぉおお!」
弁慶は叫び、男に斬りかかった。
男が避ける。素早い。
街で先頭を走ってた奴だ。大将なのか。
すぐに身を翻し、二撃目を繰り出す。男が躱し、欄干の上へ跳ぶ。着地の瞬間、斜め下から斬り上げる。また跳ぶ。
男が何かを投げ付けて来た。首だ。転がる。ちらりと見やる。
――閻魔じゃない。
弁慶は再び叫び、剣を振り上げた。
男が背を向け、逃げ出す。が、弁慶のほうが早い。
真横に振り抜いた剣が胴を裂き、男は二つになって床に崩れた。
溢れ出た血が、首のところまで流れて行く。
再度首を見た。
(……禄珠って奴か)
蛇蝎の遠縁だと言い張っていた男だ。
「弁慶!」
背後から声がした。
振り返る。
閻魔が、青い顔で駆けて来た。
首を一瞥したのち、早口で問う。
「星占と那由多を、見なかったか」
旅立つ際に、閻魔の部屋へ迎えに行く予定だった。一緒ではなかったのか。
「見てねぇ。探すぞ」
二人は駆け出した。
一階にいた気配はない。上を目指す。
男の刀が振り下ろされた。
危ない!
言葉にできず、星占は那由多に飛びついた。
那由多を抱いて床を転がる。
「誰か!」
大声で叫びつつ立ち上がり、那由多の腕を引いて立たせる。
庇うように前に立ちつつ、欄干のほうへ後ずさる。
必死に考える。那由多のほうが足が速い。一人ならば逃げ切れるのでは。
でも、何処から逃がす?
三人の男が、周囲を取り囲む。
じりじりと、欄干へ追い詰められて行く。
脳裏を、あの光景が再び過ぎった。
回廊――見慣れぬ黒装束――刀――振り下ろされたその先に…
目の前の光景と、重なった。
翻る刃が、夏の日差しに光った。
星占は背を向け、那由多に覆い被さった。
背に、衝撃が走った。
熱い。重い。
重みが胸へ抜ける。
そして、視界いっぱいに広がる、血の赤――
(那由多…)
いや、これは那由多の血ではない。
自分のだ。すごい量だ。大雨のよう――
目を見開いた那由多の頭から、自分の血が降り注ぐ。
驚いている。それはそうだ。
ああ、ごめんね…びっくりさせて…
でも、無事だった――
未来を、変えられた。
「星占ーー!!」
倒れながら、霞む視界の端に、閻魔が見えた。
何を叫んだのか、覚えていない。
階段を駆け上がった先に、星占と那由多が見えた。
星占の胸から血が噴き出し、那由多に降りかかった。
その後ろに、男が見えた。気付くと、自分の剣がその男の喉を引き裂いていた。
左から別の男が迫る。剣を薙ぐ。血飛沫が上がる。男が倒れる。
右からもう一人。閻魔はまた叫んだが、言葉になったかわからない。何の音も聞こえない。
男が倒れる。返り血が顔にかかる。視界が赤く染まる。倒れた星占が赤い。駆け寄りながら、腕で目を拭う。赤が消えない。世界全部が、赤い――
「星占!」
閻魔は、妻の名を呼んだ。
急に音と色が戻った。
抱き起こす。温かい。濡れている。これが、全て血なのか。
星占が目を開けた。
生きている――!
「…那由多は?」
呆然と座り込む真っ赤な那由多を一瞬見て、また星占を見る。
「無事だ。そなたが守った」
星占の目が細くなる。
「よかった――やっとひとつ…ひとつだけ…私にも、変えられました」
「変えた…?何をだ。星占!」
閻魔が叫んだ。
「星占!!」
星占は答えない。
口元に微かに笑みを浮かべたまま、動かなくなった。




