第4章 第13幕 黒蹄
土が日差しを照り返し、大地から湯気が上がっていた。
双蛾は額に滲む汗を拭き、作業場を見回った。
人界側の半面を覆う石垣の建築に、着手したところだった。
だが、暑すぎる。
南から遥々石材を運び、積み上げる、重労働だ。
秋まで待つほうがよいかもしれない。その間、ほかにもできることは、ある筈だ。
辺りを見回したとき、銀狐が駆け寄った。
「双蛾、北側の崖が、崩せるようになってる」
嬉々として山脈を指差す。
「試しに久々に楔を打ってみたら、崩せたんだ。今なら、砦を作れる」
北衡嶺が、崩せる――界綴りは?
「設計、考えといてくれよ。南よりも頑丈なの作ろうぜ。不知火にも知らせて来るな」
双蛾の混乱をよそに、銀狐は笑って走り去った。
山脈を見やる。
何も変わりはないように見える。
以前から砦を置きたいとは考えていた。
だが。
何故、今急に?
燦牙は暑さで目を覚まし、苛立ち紛れに手近の椅子を蹴り飛ばした。
日差しが山壁に遮られる午前中は、まだよいのだ。太陽が真上に上がる頃から、急に暑さが増す。岩肌が熱を放ち、足元が焼けるようだ。
何もする気が起きず、近頃は一日中寝てばかりいた。
南に見える栄えた街は、屈強な野郎どもに守られ手が出せない。さらに南の荒野は魔獣が多く、住めるような場所ではない。一時期は、黒蹄をはじめ数多くの野党団が北衡嶺の麓に根を張っていたが、食料難からこの地を引き上げる者も多かった。
引き上げて、どこへ行くか。
界門は強固に守られ、人界側には行けない。
この不毛な魔境の荒野で細々と生きて行くか、奈落に帰るか、だ。
(奈落だけは、もうまっぴらだ…)
ひとまず、暑さの和らぐ夕方まで再度寝る。その後、どこか別の砦を襲って食料を頂くか。
不貞腐れつつ、水瓶の水を掬って飲んだとき、違和感を覚えた。
いつも上から押さえつけてくるような圧が、消えている。
上を見た。
太陽が眩しくて、よく見えない。
この砦を奪ったとき、赤牙残党は何と言っていた?
『変な圧で押し返されて、今は登れない――』
今なら、登れるのではないか。
上には何があると言っていたか。女の園だ。最高だな。
さらに山を越えれば、何がある?
――人界じゃねぇのか?
燦牙は口元に零れた水を拭い、獰猛な笑みを浮かべた。
「てめぇら、起きろ!やることができたぜ」
芙蓉は、山の気配を感じ取るため、本堂に籠もった。
寂峰様にこの力を授けていただくまで、こんなにも強大で、こんなにも繊細な力が、この山を包み込んでいるなんて、知らなかった。
生活を営み、私たちに説法をし、ご自身の修行に打ち込みながら、常にこの力で山を守り続けるなんて。寂峰様と妙艶様は、本当に凄い。
まだ力を扱い慣れていない私は、音や光の溢れる屋外では、うまく感じ取れない。だから、こうして本堂に籠もる。
界綴りを伝授していただいたのは、どうやら私だけではない。
これまで、大導尼様だけに密かに伝えられてきた、秘術。教義に厳格な寂峰様が、突然皆に広め始めたのは、何故なのか。
『近々そなたの力が必要となるやもしれぬ』
そうおっしゃった。どういうことだろう。
思い浮かぶのは、ここ白嶺院を数年前に襲った山賊のことだ。
あれは本当に恐ろしかった。八人もの尼僧が斬られて亡くなり、すぐ隣にいた同い年の沙尼が、連れ去られた。あの娘は、どうなったのだろう。
寂峰様と妙艶様が、界綴りの力で退けてくださらなければ、もっと大変なことになっていた。
まさか、寂峰様は、ここがまた魔境側から狙われることを、警戒しておられるのだろうか。
――それにしても。
今日は、山の気の流れが、いつもと異なる。
どんなに集中しても、妙艶様の紡ぐ糸が感じ取れない。
私の力など、所詮まだまだなのだ。
芙蓉がため息をついて目を開けたとき、本堂の外で悲鳴が上がった。
扉を開けるのと同時に、何かが飛んで来た。
芙蓉のすぐ脇の壁に激突し、地に落ちる。
丸めた法衣?――いや、人だ!
芙蓉は目を疑った。
黒装束の男たちが、暴れている。
薙刀を構えて立ち向かった行尼を捕まえ、軽々と頭上まで持ち上げると、投げ飛ばした。行尼は倒れ伏し、動かなくなる。
全身が粟立った。
山賊――!?恐れた矢先に…
「寂峰様!妙艶様!」
芙蓉は叫んだ。
一人の男が芙蓉に向き直った。ぎらつく目に射貫かれ、動けなくなる。男が大股で近付く。手が伸びる。怖い――!
必死で印を結んだ。
「ぐあっ!なんだ!?」
芙蓉の目の前で、男が膝から崩折れた。
「くそっ…やめろ!」
男の体が、地面へ引きずり込まれるように倒れる。
大地から伸びた光の糸が、その四肢を締め上げていた。
(これが、界綴りの力……今、初めて…)
芙蓉は息を乱しながら、なお術を張り続けた。
あちこちで、男が倒れていく。
「皆、術を解くでない」
背後で、寂峰の声がした。
同時に、まだ立っていた何人かの男が、呻きながら倒れて行く。
芙蓉の目には、山から沸き上がる無数の糸が見えていた。
「妙艶様が、どこにもおられません…!」
社殿の奥から駆けて来た行尼が叫んだ。
おられない?どういうこと?
意識が逸れた。
瞬間、大気に弾かれる感触があり、芙蓉は後ろ向きに倒れた。
「…ふざけんなよ…!」
目の前の男が、立ち上がっていた。
芙蓉は息を飲んだ。
直後、腹に衝撃が走った。
蹴り飛ばされたのだと、宙を飛びながら理解する。
芙蓉は、別の尼にぶつかった。
もろともに倒れる。
別の男が立ち上がる。
「馬鹿野郎、そっちじゃねぇ!人界のほうだ!」
気を失う直前、芙蓉の耳に聞こえたのは、その野太い怒鳴り声だった。




