第4章 第12幕 白嶺院
『界綴りの秘術が、黒稜院側に漏れたのではないか。道士連の混乱は、そのせいではないのか』
飽きもせず、今度の幽蛉も同じことを聞いてきた。
その筈はない。秘術は自分と妙艶、二人の大道尼が厳に管理し、外に漏れることなどあり得ない。山脈の守りにも抜かりはない。道士連の混乱など知ったことではない。
――そう撥ね付け、寂峰は心を閉ざした。
尼僧連の幽蛉は、霞となって消えた。
入れ替わるように、夏の日差しが戻ってくる。
寂峰はため息をついた。
尼僧連にはああ言ったが、本心では、大いに疑っていた。
禁呪の龍、法嶽の訪問――あの頃から、おかしくなったのだ。
本堂へ入り、戸を閉める。
蝉の声が掻き消える。
ひんやりとした闇が、寂峰を包み込む。
神経を研ぎ澄ませ、山の気の流れを確認する。綻びを見つける。糸を紡ぎ直す。
またため息が出た。
毎日毎日、この繰り返しだ。
妙艶は庵に籠りきり。一応術は張り続けているようだが、いつも必ずどこかに綻びがある。慌てて修復する日々に、寂峰は疲れ果てていた。
妙艶は、もはや当てにならぬ。
「寂峰様、お呼びでございますか」
戸が開き、光とともに人影が入り込んだ。
すぐにまた闇が戻る。
「芙蓉、こちらへ」
暗がりの中、小柄な影がにじり寄る。
「そなたに、界綴りの術法を、教えておこう」
影が息を飲むのがわかった。
「ですが…それは大道尼様だけの…」
「よい」
寂峰は短く言った。
妙艶はおそらく、既に掟を破った。
山を守るために、自分も、禁を犯す。
「近々そなたの力が必要となるやもしれぬ。心して聞くがよい」
法嶽は、機械的に足を繰り出し、山道を登った。
照り付ける日差しに、じっとりと汗が滲む。
黒稜院ではなく、無意識に白嶺院へ向かっていることに気付き、自嘲する。
正理郷の寺院は焼け落ち、野望もまた灰となった。
寛詠の言う通り、寺院を焼き住職を殺した法嶽の悪名は、後の世まで語り継がれるだろう。
全てを失ったどころではない。一人では抱えきれぬ重荷が、のしかかった。
一人では――
だからと言って、ここへ来てどうなる。
口の端に皮肉な笑みが浮かんだとき、山門の屋根が見えてきた。
じりじりと照り付ける炎天下、外に出ている者はいなかった。
蝉の声以外に、聞こえるものもない。
社殿の最奥、少し日陰になった場所に、幾度も通い詰めた庵が見える。
法嶽は足を進め、黒壇の戸に手をかけた。
「御免――」
静かに、踏み入る。
香は焚かれていなかったが、壁に染み付いた耽美な香りは、以前のままだった。
暗い部屋の片隅に、妙艶が端座していた。
ひどく小さく見える。
何と声をかけるべきか。
ここに及んで、何の言葉も用意していなかったことに気付き、法嶽は戸惑う。
一礼し、考えもなしに話し始めた。
「妙艶殿…お教えいただいた術、この法嶽の手には余りました。今はただ、この身が朽ち果てるのを待つばかり」
話しながら、そうだったのか、と理解する。自分は、滅びを待っているのだ。
妙艶が微かに動く気配がした。
「同じでございます」
その声は艶を失い、掠れていた。
「日々、何とか山の気を繋ぎ止める以外、出来ることもなし。それにさえ、疲れ果てました……」
「…天衡尼正に、なられるのでは」
妙艶が嗤う。
「尼僧連は、私と法嶽殿の繋がりを、疑っております。もはや、そこに至る道はございません」
法嶽は深く頭を下げた。
「申し訳ござらん。ともに頂きに立とうと言ったことが、仇となりましたな」
妙艶がまた動いた。立ち上がったようだ。
「これから、どうなさるのですか」
これから――何も考えていない。
「行く当てもありません。どこかでひっそりと、滅びを待つのみ」
衣擦れの音が近づき、手に何かが触れた。それが妙艶の手であると、遅れて気付く。
「私も、お連れくださいまし…」
その頭が、法嶽の肩にしなだれかかる。
法嶽は、暗がりに目を据えたまま、呟いた。
「…滅びゆく道ですぞ」
「あなた様と一緒ならば、それでようございます」
終焉へと続く闇の中、初めて足元に灯りがともった気がした。
法嶽は唾を飲み込み、妙艶の痩せた肩を抱いた。




