第4章 第8幕 旧勢力
蛇蝎様の時代は、よかった――。
俯いて大通りを歩きながら、寧阿は、分厚い瞼の下の目だけを動かし、周囲を窺った。
人通りは、以前より明らかに少ない。当然だ。度重なる外部からの侵攻で、治安が悪化しているのだ。
東側の街路の奥で、工事が行われている。焼けた街区の復旧作業か。
指揮を執る丸顔の小男には、見覚えがある。維辰とかいったか。かつては誰にも相手にされず、小物過ぎるが故に、蛇蝎様の時代を生き延びたのだ。閻魔は、あのような小物を重用しているのか。嘆かわしい。
蛇蝎様の治世では、徹底した恐怖のもと、国は統率がとれていた。
我が身に危険がおよぶ恐れは常にあったが、うまく立ち回れば、平穏を享受できた。
軍も、今より圧倒的に強かった。家族を人質とされた兵士たちは、個を捨てて駒となり、身を賭して戦ったものだ。外敵がこの都を脅かすなど、誰も想像しなかった。
街路を上り、かつて暮らした官憲居住区を過ぎると、その先には豪奢な邸宅が建ち並ぶ。
目当ての屋敷が見えた。
彫金の施された門扉の柱に縋るように、男が一人立っている。
「胤雅殿!」
駆け寄ると、典雅な上衣に身を包んだその男は、よろめくように寧阿の手を取った。
「よく、よく参った。下賤な蛮族がここまで来るのではと、麿は、気が気ではないのだ。何とかしてたもれ」
寧阿は跪いて胤雅を見上げ、その手を包み込む。
「さぞご心痛でしょう。」
胤雅の目からさめざめと涙が流れた。
「蛇蝎様の時代に、戻してくれるというのは、本当か」
「お声が大きゅうございます」
「おぉ、そうじゃった。さ、さ、中へ」
目頭に袖を当て涙を拭うと、胤雅は寧阿を屋敷に招き入れた。
香の焚かれた客間へ通される。
一見したとき寧阿は、絢爛な調度品に埋もれるように座るその男の存在に、全く気付かなかった。
「禄珠様、寧阿殿が参られましたぞ」
胤雅が声をかけると男はビクッと体を震わせ、鼠のような目を忙しなく動かして、寧阿を見た。お仕着せのような煌びやかな衣装が、滑稽だ。
(…これが、蛇蝎様の遠縁…?)
驚きを飲み込んで笑みを浮かべ、寧阿は恭しく頭を下げた。
「お目にかかれ、光栄にございます。この寧阿、必ずや禄珠様を王の座に」
「う…うむ…た、頼むぞ…」
禄珠は目を反らし、細かく頷いた。
顔を上げぬまま、寧阿は聞こえぬように舌打ちした。
(これは、あまりにも…)
そのとき、部屋に踏み入る黒靴が目に入った。
「寧阿殿、お待ちしておりましたぞ」
この濁声、見なくともわかる。
「桐薫殿、お久しゅうございます」
顔を上げる。赤ら顔。値踏みするような眼差しが、相変わらず気に障る。
だが、手を取り合うしかない。
「嬉しいのぅ」
胤雅が笑顔を照りつかせ、腕を広げて歩み出た。
「麿たちの手で、雅やかな天元を取り戻すのじゃ」
登城した廉朔は、正門で維辰に行き会った。
袖口と靴が汚れている。城下の復旧作業に、自ら手を貸して来たのだろう。残郷での失態に責任を感じてか、維辰は骨身を削って日々働いている。真面目な男だ。
「維辰殿は、お父上によく似ておられますな」
並んで歩きながら、廉朔は言った。維辰が微笑む。
「父のことを知る方も、少なくなりました。廉朔殿が、蛇蝎様の時代を生き抜いて来られて、よかった」
「私は、寧阿殿により辺境へ左遷されておりましたのでな。蛇蝎様のお目が届かなかったのですよ」
蛇蝎の即位後間もなく、先代を支えた忠臣の多くが、次々に謎の死を遂げた。維辰の父もその一人だ。中央政権には、保身しか考えぬ者だけが残り、政治は腐敗した。
閻魔が王座に就いたのち、誰が推挙したのか、廉朔は中央に呼び戻された。戦後の混乱に乗じて素早く人事を動かし、良識ある官吏で閻魔の周囲を固めた。
「寧阿殿と言えば…」
維辰が思い出したように呟く。
「先ほど城下で見かけたような気がするのです」
廉朔は聞き咎めた。蛇蝎時代、利権を貪った筆頭格だ。真っ先に辺境の閑職に追いやった筈。城下で、何を?
広間に入る。数人が先に来ていた。
宗烈の隣に腰を下ろす。いつにも増して仏頂面だ。
「軍の訓練場を、何故か桐薫が見に来ておった」
桐薫もまた蛇蝎の寵臣であった。
詳しく聞こうと口を開けたとき、広間の扉が開き、閻魔が入場した。
「皆、待たせたな。これより会議を始める」
戦で農地が荒れ税が減る一方、復興で出て行く金は多い。富裕層の負担を上げねば、国が冬を越すのは難しい。難民を受け入れつつ、近隣諸国の動向を探り、侵攻に備える。課題は、山積みだ。
審議は長時間に及んだ。
ようやく終わると、廉朔は立ち上がり、痛む腰を伸ばした。立ち去りかけ、思い留まる。
先刻の件、念のため閻魔の耳にも入れておくべきか。
「閻魔様」
閻魔が顔を上げる。隈が濃い。皺も増えた。
寧阿と桐薫のことを告げる。眉間の皺が深くなる。
「そうか…気に留めておこう」
「ご身辺の警護を、増やしたほうがよいかもしれません」
脇に控える弁慶が、書類の束を抱え頷いた。
「出歩くときは、なるべく俺が一緒に行こう」
「それがよいでしょうな」
一礼し、下がる。
「廉朔殿」
去り際、扉の前で呼び止められた。
振り返ると、先刻とは違う穏やかな顔で、閻魔がこちらを見ていた。
「苦労ばかりかけて、すまぬ。そなたがいてくれて、よかった」
少し驚き、閻魔を見返す。
自分は、できることをやっているだけだ。
若き頃に僻地へと追いやられ、最も精力的に働けた筈の時代を、無益に過ごした。閻魔に見出されたのち、半生を取り戻すつもりで尽くして来ただけだ。
「…そのお言葉、そのままお返しいたします」
廉朔は再度深々と頭を下げ、退室した。
宗烈は、昼間見た光景が気になり、再度軍部へと足を運んだ。
既に夕日は落ち、ほとんどの兵士は着替え、談笑しながら帰路につくところだった。
蛇蝎時代、宗烈は武官であった。この場所の当時の様相を思い出す。家族から引き離され、私語は許されず、次第に人の心を失っていく兵士たち。連日の厳しい訓練で、駒としての動きを叩き込まれる。世界最強の軍と謳われながら、誰も誇りなど持っていなかった。
閻魔の治世となり、燈都兵が交じり入り、時間をかけて人間に戻ったのだ。
兵たちが、宗烈に会釈し帰って行く。
桐薫は何をしに来たのか。
偵察だ。軍の力を測りに来たのだ。なぜ――
…武力政変?
篝火の向こうに、廉朔の姿が見えた。
廉朔もやはり、桐薫の動きが気になったのだろう。
意見を聞きたい。
一歩踏み出したとき、廉朔の前を影が横切った。
そこからの光景は、ひどくゆっくりに見えた。
廉朔が振り向く。その目が見開かれる。影が腕を振り上げる。刃が光る。振り下ろされる。廉朔の胸から、飛沫が上がる。血だ――
「曲者だ!出会えー!」
宗烈が叫ぶのと、廉朔が崩折れるのが、同時だった。
剣を抜き、廉朔のほうへ走る。兵舎の戸が開き、宿直の兵士が走り出て来た。
影は数人いた。ばらばらに逃げて行く。兵がそれを追って行く。
宗烈は、廉朔の側へ駆け寄った。
剣を投げ捨て、抱き起こす。
手が濡れた。すごい量の血だ。
「廉朔殿!」
声が震える。
「…あの紋は、胤雅殿の…」
廉朔が震える手を宗烈へ差し伸べる。その手を握る。濡れて、冷たい。
「何も言うな!しっかり…」
「…閻魔様を、どうか……」
頼む、と唇が動くのが見えたが、声は聞こえなかった。
廉朔の死の報せは、城を重く包んだ。
その亡骸を前に、閻魔は立ち尽くす。
ほんの数時間前に交わしたあの会話が、最後となるとは。
――狙われていたのは、わしではなかった。
閻魔政権のどこを突けば最も痛手が深いか、敵は知り尽くしていたのだ。
敵……誰なのだ。
考えを巡らそうと意識を向けるが、形を結ばなかった。
廉朔の死に顔を見つめる。眠っているかのようだ。
いつも穏やかで、声を荒げることのなかった廉朔。博識で、どこか清濁併せ呑む老獪さもあった。天元の面倒事を、一手に引き受けてくれていた。
――わしが、表舞台に連れ出したために…
跪き、廉朔の動かぬ手を握った。
「すまぬ…」
明日からどうやって国を回すか。するべきことは数多いが、何も考えられず、閻魔はただ一筋の涙を流した。
蛇蝎の血筋の者が王位を主張している、との報せが届いたのは、それからしばらくのことだった。




