第4章 第7幕 樹
黒鉄と杏に三番目の子が生まれた。
難産だったらしいが、双蛾が訪ねたときには、杏はすっかり元気になっていた。
「待望の女の子なんだ。抱いてやっておくれよ」
布団の上で身を起こした杏から、赤ん坊を受け取る。
軽く、温かく、柔らかい。
「うわぁ…」
と言ったきり、双蛾は言葉が続かなかった。
杏の手が空いたのを見て、二番目の子がすかさず抱き着いた。まだまだ甘えたい盛りなのだ。
長男を抱いた黒鉄が、隣で笑う。
双蛾は赤ん坊をそっと抱き締めた。頬を寄せると、甘いような不思議な匂いがした。
戸が叩かれ、焔が顔を出した。
「黒鉄、いいか。――あぁ、双蛾もいたのか。ちょっと来てくれ」
双蛾は黒鉄と顔を見合わせ、杏を見る。
なんだろう。不安が過ぎる。
「行って来なよ」
杏は力強く微笑み、双蛾から赤ん坊を受け取った。
城へ向かう道すがら、双蛾は焔の言葉を繰り返した。
「正理郷が、天元に…?」
「被害は小さかったらしいがな」
「南盟が、じゃなくて、正理郷が攻めたの?」
「そのようだ」
双蛾の胸に、暁の練兵場が蘇る。
あそこで過ごしたのは、十年以上前だ。それでも皆覚えている。
閻魔が暁を法嶽に差し出したのは、守るためだった筈だ。何故、戦うことになったのか。
城へ入る。
不知火と銀狐が、地図を挟んで向き合っていた。何通かの文も散らばっている。
銀狐が双蛾を見た。
「呼びに行ったがいないと思ったら、黒鉄と一緒だったのか」
「赤ちゃん、見に行ってた…」
双蛾は呟き、席に着いた。腕に残る赤ん坊の温かみが、急に冷えて行くようだった。
不知火が皆のほうへ地図を近付ける。
「南盟の狙いがよくわからん。一応こっちでも対策しとく」
やはり気になるのは、北面の防御だ。
投石機は、数を増やす。
兵舎も新しく置き、常に何人かは詰めておく。
「落とし穴も、いいかもな。山は削れねぇけど、地面は掘れるだろ。いずれ街が拡がったら、埋めればいい」
不知火が地図を指差す。
役割を決め、皆散って行った。
双蛾は部屋に残り、窓辺に立った。
北の空は、曇っていてよく見えない。
「双蛾」
後ろから、不知火の声がした。
双蛾は振り返らず、空を見続けた。
「…天元に、戻りたいんじゃねぇか」
言葉にされると、急にわからなくなった。
南盟との戦いのあと、ひとり天元で考えた。
何も捨てたくないという閻魔の言葉が、身に染みてわかった。だが、大事なもの全てには手が届かないこともわかっていた。考え抜いて、燈都に帰って来た筈だった。
だが――。
双蛾は、両手で自分の体を抱いた。赤ん坊の感触を思い出す。
那由多も、生まれたばかりの頃、あんな匂いがした。妹のようだった星占が母になったのが、初めは不思議だった。那由多と星占、そして二人を見つめる閻魔。彼らの平穏を、命に代えても守りたいと、そのときは思ったのだ。
今、彼らはどうしているのだろうか。
「いいんだぞ、戻っても」
不知火が言う。
振り向くと、微かに笑っていた。
(…こんな優しい顔だったかな)
また、縋りたくなる。
――駄目だ。自分で考えないと。
ひとつ呼吸し、双蛾は微笑んだ。
「投石機のほう、見てくる」
不知火の横を通り抜け、部屋を出た。
現場に出ると、杏がいたので驚いた。
「何してるの?もう動いて大丈夫なの?」
双蛾が駆け寄ると、杏は腰に手を当てて笑った。
「平気、平気。なんせ今や、投石機のこと一番わかってるのは、あたしだからね」
「赤ちゃんは?」
「隣のおばちゃんが、見てくれてる」
岩場に並べた移動式の投石機を、杏が指差す。
「大角牛の皮を車輪に巻いてみたら、揺れずに運べることがわかったんだ。我ながら、いい案だったよ」
地面に茣蓙をひいて数人の女が座り、車輪を手に作業していた。
「危険なことを任せっ放しで、ぼーっとしちゃぁいられないからね。あたしらも、できることをやらないと」
「…ありがとう」
胸が温かくなる。双蛾は微笑んだ。
杏は頷き、そのあと宙を見て呟いた。
「子供の名前、考えてたんだ。女の子だからね。双蛾みたいに、強くてカッコいい子になってほしくて」
双蛾は驚き、まじまじと杏を見つめた。
「…強くてカッコいいのは、杏だよ」
双蛾が言うと、杏は口を開けて笑った。
夜が訪れる。
見張り櫓から、改めて北の空を見る。
昼間は曇っていたが、星が出始めていた。
地上の篝火の周りには、散らかった作業場が見える。
やはり、自分の居場所は、ここだ。
だが、どうしても気になるのは、予言のことだ。
星占は、未来を変えたのだろうか。
天元を戦火が襲うたび、怖くなる。
星占がせっかく変えた未来を、自分が、離反によって壊したのではないか。
ずっと胸に刺さっていた苦しさの正体に、ようやく気付いた。
罪悪感だ。
紅蓮も不知火も離反したが、予言のことは知らなかった。
自分だけが、知りながら、閻魔のもとを離れたのだ。
知っていればこそ、そばでできることがあったかもしれないのに。
この苦しさ、予言のことは、不知火には言えない。
言えば、同じ重荷を背負わせることになる。
自分だけで抱えて、ここで生きていくしかない。
「おーい、双蛾。交代の時間だ」
地上から、不知火の声がした。
梯子の下で不知火が待っていると、双蛾が降りてきた。
「今日、黒鉄の番じゃなかった?」
「あぁ、子供の名前が決まったとかで嬉しそうにしてたから、代わってやったんだ」
「名前?」
「樹、って言ってたな」
いつき、双蛾の唇が、声を出さずに動いた。
双蛾は微笑んだ。
「いい名前。きっと、何があっても揺れないね」
双蛾のこんな柔らかい笑顔を、久しぶりに見た気がした。
双蛾が揺れているのは、わかっている。
揺れても寄り掛かれない子だと、神楽が昔言っていたのを思い出す。
不知火は言った。
「揺れない人間なんて、いねぇよ」
双蛾の顔から笑みが消え、その瞳が不知火へ向いた。
「…なんで揺れてるか、言ってくれねぇか」
双蛾が目を伏せる。
「……言えない」
「――そうか」
不知火は小さく息を吐いた。
櫓に向け一歩進みかける。
が、思い直し、立ち止まる。
もう一度、双蛾を見る。
「…言えないままでも、寄りかかるくらいは、できるか」
双蛾が目を見開いた。
不知火は、両腕を広げた。
風が吹いた。
一瞬躊躇ったのち、崩れ落ちるように、双蛾が胸に抱き着いた。
その背を抱きしめる。
この間は、意識が散らばり何も覚束なかった。
今は、双蛾の輪郭を確かめるように、しっかりと抱く。
「言えないなら、言わなくていい。そのまま全部、俺が受け止める」
少し体を離し、双蛾を見つめた。
また、泣きそうな目をしていた。
この目から、涙が零れないように。
(俺が守る)
双蛾が目を閉じた。
不知火は、ゆっくりと唇を重ねた。




