第1章 第5幕 暁の村
故郷の村人に名残を惜しまれつつ、閻魔と弁慶は漁村に別れを告げた。
「いつでも戻って来い」
微笑んで送り出してくれる領主と、固い握手を交わす。
だが、戻るつもりはなかった。
天元を見に行く―――。
あの日灯った光に吸い寄せられるように、閻魔は進んだ。
地図を片手に西を目指す。
立ち寄る村々で農作業を手伝っては、わずかな食糧と寝床にありつく。
冬には雪が積もり、村々は蓄えを削ってどうにか凌いでいた。冬を越せなかった村もあると聞いた。
春が訪れると、また日照りが始まった。どの村も貧しく、田畑は荒れていた。
大きな河をひとつ超えると、遠くに次の村が見えた。その家並みの上に、黒い雲がかかっている。
「閻魔…あれ、雨雲じゃねぇか」
「…本当だ」
思わず走り出す。
ポツリ、と顔にしずくが当たった。
村が近づくにつれ雨脚は強まり、辿り着く頃には土砂降りとなっていた。
二人は禽馬から飛び降り、ぬかるみの中、声をあげて走り回った。
「これで田畑が救われる!」
「恵みの雨だ!」
天を仰ぎ、大粒の雨を顔面に受けながら、胸は晴れ渡って行った。
そのとき。
「一度の雨など、何も変えぬ」
雨音を縫うように、低い声がした。
驚いて振り返る。
いつからそこにいたのだろう。松の木の下に、一人の僧侶が立っていた。
顔に深く刻まれた皺は、相当な年齢を感じさせる。だが、村を見つめる眼光は鋭い。黒い錫杖を手にしていた。
「…誰だ、あんた」
喜びに水を差された弁慶が、ぶっきらぼうに尋ねた。
「別に何者でもない。ただ理を見る者だ」
理…?
聞きなれない言葉だった。
老僧は、ゆっくりと閻魔に歩み寄った。
痩せているが、上背は閻魔と同じだった。
「これが、恵みの雨と思うか?」
「…違うのか?」
「明日からまた、降らぬとしても?」
閻魔が言葉に詰まると、老僧はニヤリと笑った。皺がいっそう深くなる。
「仕組みを変えねば、同じこと……だがこの村は、よそより地の利があるではないか」
雨に打たれたまま、閻魔は老僧を見つめた。
「考えよ。何もなさねば、理は整わぬ」
老僧は再び閻魔を見据え、不敵な笑みを浮かべると、踵を返した。
「わしはもう、ほかの村へ行く。……雨雲は、連れて行くぞ」
後ろ姿が、降りしきる雨の向こうへ消えてゆく。
―――仕組み……地の利?
何かを、聞かねばならない気がした。
だが――何を?
口を開きかけたときには、その姿は見えなくなっていた。
ほどなくして雨がやみ、太陽が顔を出した。
木々の葉に溜まった雫が、キラキラと光った。
宿を借りたいという申し出を、村人たちは快く受け入れてくれた。
久々の雨で皆気をよくしており、閻魔達にも酒がふるまわれた。
その晩、布団に寝転がり弁慶のいびきを聞きながら、閻魔はぼんやりと考えた。
仕組みを変える――どういうことだ?
この村に、地の利がある?
記憶をたどる。
昼間に目にした田や畑…畦道…松の木…河…
「……河…」
そういえば、日照りの中でも河の水は枯れていなかった。
あの水を……。
そこまで考え、思考を止めた。
―――そんなことが、できるのか?
いや、それ以前に…自分は、よそ者ではないか。
閻魔は苦笑する。この村のことに口を出す立場ではない。しかし…
『何もなさねば、理は整わぬ』
僧侶の言葉が耳に残っていた。
……明日、もう一度、見てみるか。
そっと目を閉じ、閻魔は眠りに落ちていった。
翌朝荷物をまとめると、一夜の宿の礼を告げ、閻魔は外に出た。
昇り来る朝日に、土が早くも乾き始める。
閻魔はしばらくその光景を見つめていたが、禽馬にまたがると、昨日来た道を戻り始めた。
「おい、天元はあっちだぜ」
弁慶が声を上げた。閻魔は振り返る。
「ああ。その前に、確かめたいことがある。……お前も、来てくれ」
弁慶は眉をひそめたまま、後を追った。
昨日は、雨に浮かれて気付かなかった。
あのとき、村へは、『駆け下りて』行ったのだ。
河へと続く平原は、ゆるやかな上り坂となっていた。
河のほうが、少しだけ、高いのだ。
河の土手が一部高くなっている。水がそこで向きを変え、小さく飛沫を上げていた。
「なあ、どうしたんだよ。…それにしても、今日も暑いな」
弁慶は閻魔のそばへ歩み寄ると、かがんで手に水をすくい、ガブガブと飲んだ。
「こうやって、いつでも水が手に入りゃあ、楽なのにな」
「……それだ」
「…どれだ?」
閻魔は目を細め、乾いた地平を見渡した。
―――高くなった河の土手を切り崩す。水はそこから流れ出す―――。
村へと水が流れて行く光景が、脳裏に立ち上がった。
閻魔は、弁慶に向き直った。
「天元の前に、やることができた」
弁慶は立ち上がると、一瞬不思議そうな顔をし、そのあとニッと笑った。
「……なんだか知らねえが、いい顔してるじゃねえか」
大きな拳を、突き出す。
「俺は、お前を手伝うって決めたんだ。…やれよ」
閻魔は力強く弁慶を見つめ返し、拳を合わせた。
夕暮れが近いた。
まだ帰らぬ子供を探しに、村外れの広場へ父親がやってきた。
「あ、父ちゃん」
一人の子供が、手を振ってピョンと跳ねた。
「こんな時間まで何やってんだ。あれ…あんた達は、昨日の」
子供たちに交じって、大の男が二人、泥に手を突っ込んで何かを作っている。
その一人が父親に気付き、立ち上がると、朗らかな笑顔で額の汗をぬぐった。
「ああ、ちょうど完成したところだ。こういうのは、子供のほうが上手いな。手伝ってもらって、助かった」
「一体、何をやってるんだ…?」
父親は、いぶかしげに足を止めた。
盛り土の上に、木の枝や小石が積まれているように見えた。
「見せたいものがある。村のみんなを呼んで来てくれんか」
あたりが薄暗くなる中、広場はざわついていた。
謎の盛り土のまわりに、人だかりが出来ている。
あの石は僕が拾ってきたんだ、私が土を踏んで固めたんだよ、と子供たちの声が楽しそうに響く。
「よし…流すぞ」
大柄な男が言い、桶を持ち上げた。桶が小さく見えるほどの大男だ。
盛り土の片側から、ゆっくりと水が流れ始める。
「これが、河だ。…こっちが、この村」
もう一人の男が、棒切れで指し示す。
なるほど、よく見ると、村だけでなく、周囲の丘や林までもが、ドングリや木の葉で模られていた。
「それがどうした」
という声が飛んだ。
「まあ、見ててくれ」
男は微笑んでそう言うと、河の曲がり角から小枝を抜いた。
水の流れが変わる。
細く流れ出した水は、やがて村へとたどり着き、積まれていた草の実をゆるやかに押し流した。
大成功!子供たちが歓声を上げた。
「この水を、村まで引ければ」
男が身を起こした。
「雨が降らなくても」
よく通る声。
「田畑に水をやれる。―――もう、日照りに悩まされずに済む」
一瞬、広場はしんとなった。
少しずつ、ざわめきが起きる。
いや、これは子供の遊びだろう。でも、地形はここと同じだぞ。そんなことが、できるのか?でも、このまま日照りが続いたら…?
「村長は、いるか?話をしたい」
男が呼びかけた。一同は顔を見合わせる。
「…いないよ」
村人の一人が言った。
「…いない?」
「不作が続いたんで、大きな町の親類を頼るって、昨年出て行っちまった」
「……村を、捨ててか」
後ろの大男が舌打ちするのが聞こえた。
「…お父ちゃん、やろうよぉ」
一人の子供が、父親の手を引っ張った。
すると、やろう、ねぇやろう、と、あちこちで声が上がる。
またざわめきが広がった。
「……やってみても、いいんじゃねぇかな」
誰かが言った。
「このままじゃあ、どうせ今年も不作だろうし…」
「だが、その間田畑はどうする」「うまく行くかも、わからんのだぞ」「そりゃあ、やってみなけりゃわからんだろう」
声は重なり、次第に大きくなっていった。
辺りが暗くなってきた。
「なあ、いつまでもここにいても仕方ない。場所を移して、ちゃんと相談しようじゃないか」
誰かが言い、そうだそうだ、と皆は村へと歩き出した。
先頭を歩いていた男が、ふと振り返り、手招きした。
「…あんた達も、来るだろう」
閻魔と弁慶は、顔を見合わせ、力強く頷いた。
日に日に暑さが募るなか、村人達は精力的に働いた。
慣れない土木作業。だが、先の見えない畑仕事よりも、前進している実感があった。
疲れても、すぐ河の水にありつける。昼時になると子供たちが届けてくれる握り飯を、閻魔は村人と分け合った。
ときには喧嘩もあり、ときには積み上げた木材が崩れ、一筋縄ではいかなかった。
夏が近づく頃、ようやく水路の完成が見えてきた。
弁慶は人一倍力仕事をこなし、その腹の音に皆が笑うのを見て、閻魔は故郷を思い出した。
―――今度こそ、手放さない。
この村で生きていく未来が、少しずつ、閻魔の中で形になっていった。
「水を流すぞぉー!」
弁慶が声をあげ、村人達と丸太を振り上げて、せぇの!で土手を崩した。
流れの一部が向きを変え、水路へと流れ込み、吸い込まれていく。
ゆるやかな平原を下り、照り付ける太陽に輝きながら、流れは、村へと延びて行った。
その先端が―――村へ届いた瞬間。
ドッと歓声が起きた。
皆が抱き合って喜び、涙を流す者もいた。
閻魔は、詰め寄って抱き着く村人たちに、もみくちゃにされた。
「閻魔さんよぉ、ずっとここにいてくれよ。俺たちの、領主になってくれ」
弁慶を見やると、同じようにもみくちゃになりながら、こちらを見ていた。
閻魔はしっかりとその目を見つめ、微笑んだ。
酒宴は夜中まで続いた。ようやく皆が寝静まった頃、閻魔は外に出た。
東の空が白み始めている。田の周りを巡る水が、うっすらと輝いていた。
背後で、足音がした。弁慶が、隣に立つ。
「…ここが、お前の理想郷になるのか?」
―――理想郷。
しばらく、その言葉を忘れていた。
理想郷とは、何だ?うまく言葉にできない。
閻魔が黙っていると、弁慶が尋ねた。
「…天元は?」
「……そうだった。まあ、いずれ、見に行くか」
閻魔が笑うと、弁慶はまた拳を突き出した。閻魔が拳を合わせる。
弁慶は晴れやかな顔で伸びをした。田のほうへ進み出る。
「村に、名があったほうがいいな」
腕組みして、しばらくブツブツと呟いたと思うと、突然手を打って振り返った。
「閻魔と弁慶の村…エンベー村というのはどうだ!?呼びやすいし、最高だ!」
……本気か?閻魔は苦笑する。
そのとき、朝日がゆっくりと差し込んだ。
田畑が目を覚ますのを、閻魔は目を細めて見つめた。
「……暁だ」
自然に、口をついて出た。
「すべては、ここから始まる。―――暁の村だ」
弁慶が頷いた。
「いいな。…エンベー村より、わずかに勝るな」
ニカッと笑う弁慶の顔も、やがて朝日に包まれていった。
丘の上で、老僧は水路を見下ろしていた。
水面が、淡い光を帯び始める。
「……理が、整ったな」
踵を返し、歩き出す。口元に、小さく笑みが浮かんでいた。




