第3章 第17幕 天元内政
南部旧領から戻ると、弁慶が珍しく頭を抱えていた。
留守にしていた間に、官僚たちの間で諍いが起きていた。
帰還後最初の会議の席で、残郷のことは保留にすると告げると、ざわめきが起きた。
「それが賢明と思います」
廉朔が、白い髭を撫で頷いた。
「南進に必要な経費を試算したのですがな。暁からの財源が途絶えた今、無理して行う施策ではございませぬ」
頷く者もいれば、顔をしかめる者もいた。
「維辰殿は着々と手配を進めておられたようだが」
一人に目を向け、廉朔は素っ気なく言った。
「少々勇み足だったようですな」
名指しされた維辰は、顔を赤らめ下を向いている。
閻魔は一座を見渡し、告げた。
「わしが不在の間、皆に苦労をかけた。報告にあった洛平の軍備拡充の件にも、留意しておこう。では、本日はこれまで」
一同が立ち上がり、広間を出て行く。
いつもなら、残るのは弁慶だけだ。
今日は維辰も残っている。
同じ姿勢のまま下を見つめる維辰に、歩み寄る。
「出かけておる間に、準備してくれておったのか」
維辰が勢いよく顔を上げた。丸顔に、苦渋の色が滲む。
「閻魔様、なぜでございます。手を伸ばすのを、おやめになったのですか」
閻魔は隣に腰を下ろした。
「いずれ救いたいとは思っておる。だが那由多の負担が、思いのほか大きかった。双蛾が燈都を長期間離れるのも、難しい。廉朔殿の言う通り、経費の問題もある」
「廉朔殿は…」
維辰が俯く。
「すぐに手を放す。暁の明け渡しにも真っ先に賛成したし、残郷も…」
弁慶が、諭すように脇から言った。
「暁のことは、仕方ねぇよ。俺も思い入れはあったが、守るためだった」
「弁慶殿」
眉間に皺を寄せ、弁慶を見上げる。
「残郷を救う準備を、先日は手伝ってくださったではありませぬか。廉朔殿の言葉で、簡単に諦めてよいものですか」
弁慶が口籠ると、維辰は閻魔を真っ直ぐに見つめ、言った。
「これは、私だけの考えではありません。陽凱将軍に柏仲将軍。双蛾殿の助力が得られぬなら、彼らが必ず力を貸してくれるでしょう」
軍部にまで根回しを進めていたと知り、閻魔は驚いた。
改めて維辰を見る。
維辰の父は、蛇蝎政権下に謎の死を遂げていた。清貧を尽くし民のため奔走した臣であったと聞く。閻魔が王となってから、維辰は、父親譲りの熱い思いで治世を支えてくれている。
「維辰、そこまで考えてくれ、本当にありがたい。だが、決めたことだ。今は、天元と燈都に注力する」
「閻魔様…」
維辰が肩を落とす。
「ほかにも、やることは山積みだ。そなたは土木の見識が広い。これからも、力を貸してほしい」
閻魔が真っ直ぐに見つめると、維辰は力なく微笑んだ。
実際に、やるべきことは多かった。
暁から引き上げた官僚や兵の再配置。避難民の受け入れ。収入が途絶えたことによる、予算の組み直し。
放棄したとはいえ、暁は長年天元を支えてきた要地だ。失った影響は、日に日に広がっていた。
防衛線も引き直さねばならない。洛平をはじめとする周辺諸国は、天元の弱体化を探るように軍備を拡張している。
燈都からも、北崖党に関する報告が届く。界門の守りも、今や天元にとって他人事ではなかった。
山のような文書を前に、閻魔は深く息を吐いた。
木枯らしの吹く頃、紅蓮が帰還した。
「黒稜院のあと、各地をまた少し巡って来たが――天元の調査団の姿を、度々見かけたぞ」
閻魔は目を見開いた。紅蓮は静かに笑う。
「やはり、おぬしの知らぬことであったか。維辰か修礼あたりが、勝手にやっておるのかのぅ」
閻魔は唸った。
最近、一部の者たちが私財を投じ、残郷の調査に乗り出していることは把握していた。貴族の後ろ盾もあるのか、国庫に頼らず進めているため、廉朔らも黙認している。
残郷を救うには、断たれた大地の気の流れを戻すことが必要だ。那由多を巻き込まないと決めた今、閻魔には救うすべがない。
だが、維辰は目を輝かせて言う。
「彼の地が今どうなっているか、それだけでも知りたいのです。知らねば守れぬものもあると、閻魔様もよくおっしゃるではありませんか」
呟くように、紅蓮が言った。
「おぬしの理が、ひとりでに歩き出しておるな」
閻魔は目を伏せ、唇を噛んだ。
南部調査の一団が、遥か南東の青都で抗争を起こしたことで、状況は一変する。
周辺残郷を領土の一部だと主張する青都が兵を差し向け、随行していた陽凱将軍ら護衛兵団との間で戦闘となった。陽凱は討ち死にし、その私兵団も壊滅。命からがら戻った調査団も、半数以上を失っていた。
軍事防衛を司る官吏の宗烈は、臨時会議の席で立ち上がり、激昂した。
「陽凱将軍が南へ行くなど、私は聞いていない。燈都での有事に備え、城下に待機させていた筈だ!」
「待機だけの日々に、煩悶しておられたのです」
俯いたまま、維辰が反論する。
宗烈が拳で机を叩く。
「これは、そのような個人的な問題ではない!
南盟に、天元を攻める理由を与えてしまったのだぞ」
廉朔がため息をついた。
「何のために暁を手放し、和睦を進めたのか…」
青ざめる維辰を見やり、閻魔は紅蓮に向かって言った。
「法嶽殿と、話せるだろうか」
「…やってみよう」
宗烈は憮然として腰を下ろす。
「……和睦などでは、生ぬるいのではありませぬか」
閻魔と紅蓮を交互に見る。元武官だけあって、その眼光は鋭い。
「南盟のやり方は、暁で思い知った筈。隙を見せれば、また領土を奪われますぞ――次は燈都を寄越せ、などと言われかねん」
「燈都をだと!そんな横暴な!」
弁慶が立ち上がった。
宗烈は、臆せず続けた。
「各所に軍を配備し、攻めて来るなら徹底的に戦うつもりだと、その姿勢だけでも南盟に示すべきだ」
廉朔が髭を撫で、宙を見る。
「南盟とて、無駄な戦いは避けたい筈…軍配備は、牽制にはなるでしょうな」
「ですが」
維辰が恐る恐る口を挟む。
「牽制に臆さず攻め入られれば、また大きな戦となるのでは…」
「その通りだ。暁での戦が、次は天元で起きるかもしれん」
維辰を睨みつけ、宗烈が言った。
重い沈黙が広間を包む。
閻魔はゆっくりと立ち上がった。
「まずは南盟を巻き込まず、青都との対話を試みよう。廉朔殿、使者を。誤解を解き、詫びと償いについて、話をつける」
廉朔が恭しく頭を下げる。
「宗烈殿の言う通り、各所の軍備も見直そう。特に国境南部の備えは厚くする。だが――」
宗烈へ目を向ける。
「戦を始めるためではない。戦を避けるためだ。こちらからは、手を出さぬ」
宗烈は腕組みして顔をしかめたが、やがて頷いた。
懸念は現実となる。
青都への使者は追い返され、天元領の南端で火の手が上がった。
配備していた軍がすぐに敵兵を退けたが、天元の空気は、一気に張り詰めた。
「かくなるうえは、こちらから撃って出るしか、ありますまい!」
宗烈が声を荒げる。廉朔も引き下がらない。
「戦を避ける方法を探すべきです。法嶽との講和を」
「講和など!何を要求してくるか、わかったものではない!」
閻魔が立ち上がり、口論を制した。
「講和だ。紅蓮、手筈を頼む」
息を荒げる宗烈に、閻魔は静かに告げた。
「無論、いつでも交戦できる態勢は維持する」
「―――御意」
低く応え、宗烈は大股で広間を出て行った。
会議が終わり、いつものように弁慶と紅蓮だけが残る。
誰もすぐには口を開かなかった。
紅蓮が立ち上がり、錫杖を手に窓辺へと歩み寄る。
いつの間にか、山脈の向こうへ日が沈もうとしている。
『手が届かなくなってねぇか』
不知火の言葉が胸の底に重く響いた。
届かぬどころか、南から迫る無数の手に、押し潰される感覚に襲われた。
閻魔は息を吐き、低く言った。
「紅蓮よ。そういうわけだ、法嶽殿に…」
「わしは、もう愛想が尽きた」
背を向けたまま、紅蓮が呟いた。
弁慶が目を剥いてその背を見やる。
「ここを出て、黒稜院と組み、法嶽と対決する。どのみち界綴りを何とかせねば、残郷は救えんのだ。法嶽を破り、残郷を手に入れ――わしが南の王となる」
閻魔は口を噤み、動かない。
「この先、南への手出しは無用」
肩を怒らせ、錫杖を床に打ち付ける。
カン、と乾いた音が響く。
「南を攻めることは、この紅蓮を敵に回すことと思え」
ゆっくりと、紅蓮が振り向いた。
逆光に、表情は見えない。
――が、ふっと、笑ったように思えた。
「……ということに、しておかぬか」
弁慶が口を開けたまま固まっているのが、視界の隅に見えた。
紅蓮の肩が揺れる。
「法嶽の顔が見ものだのぅ。わしの古い友を巻き込んで、本山が相手だと言ってやるのだ。天元に構っている場合ではなくなるぞ」
閻魔は立ち上がった。
紅蓮の顔を見ようと、逆光に目を凝らす。
「――ほかに、方法はないか」
声が掠れる。
「これが一番よい」
紅蓮は顔を見せぬまま歩き出した。扉の前で立ち止まる。
「二十年、楽しかったぞ。明日からは敵同士だ」
扉が開く。
「さらばだ」
「紅蓮!」
弁慶が声を上げた。
扉が閉まる。
重い音だけが、広間に残った。




