第3章 第16幕 黒稜院
紅蓮が山頂に着いたのは、雷霆の説法の最中だった。
秋晴れの空の下、見習いの沙門たちが熱心に聞き入っている。
気配を隠し、木陰で耳を傾ける。
内に目を向け、雑念を払い、心を研ぎ澄ます――最後に残るものが己の理であると、雷霆は説く。
――今の外界でそのように考えている僧は、いないのではないか。
紅蓮は小さく鼻を鳴らし、目を閉じた。
低くよく通る雷霆の声を、聞き続ける。
説法が済み、沙門の問いに答え終えると、雷霆はようやく紅蓮へと歩み寄った。
「ためになる話であった」
微笑む紅蓮を、雷霆は睨みつける。
「皮肉を言いに、わざわざ来たのか」
「本堂の壁が新しい。建て直したのだな」
――また話をはぐらかすか。
雷霆は境内を見渡した。
「下で、おぬしらが派手に騒いだせいで、色々壊れたのだ。あの巨鳥は何だ。しまいには、禁呪の龍まで呼びおって……」
本堂だけではない。経堂も庫裏も修繕が必要だった。鐘楼も建て直したが、鐘は崖下に落ちたままだ。
「…あれから何年だ」
紅蓮の黒ずんだ右手にちらりと目を向け、雷霆は尋ねた。
「七――いや、もうじき八年になるな」
そんなにか。
随分と会っていなかった。
改めて紅蓮を見る。
前よりも、痩せたか。顔中に刻まれた皺は、昔と変わらぬ。だが、眼光が――珍しく、曇って見える。
(長年の間に、おぬしも変わったのか)
ふいに紅蓮が笑みを浮かべた。
「おぬしは、変わらんなぁ」
雷霆は眉をひそめた。
紅蓮と話していると、調子が狂う。
ため息をつき、歩き出した。
「中で話すか。茶くらい出そう」
板敷の間に胡坐をかく。
雷霆の房を訪れるのは、久方ぶりだった。
棚には経典や紙の束が所狭しと詰め込まれ、隅に畳まれた布団に、替えの法衣が掛けられている。ほかには文机。それだけだ。
雷霆は紅蓮の前に湯飲みを置き、自分も座った。
「法嶽が、新しい寺院を建てたから導士を出せと言ってきた。正理郷、だったか」
紅蓮を見る。
「あそこは――暁という地ではなかったか」
紅蓮は答えず、茶を啜る。
「昔おぬしに幽蛉を送った際に、見た覚えがある。のどかな村だった」
紅蓮は一瞬遠い目をしたのち、尋ねた。
「導士は、誰を出した」
「本山からは出しておらん。放っておいたら、寛詠を連れてきたようだ。それも、大導士に格上げしてな」
紅蓮が笑う。
「随分と自由にやっておるな。もう僧正になった気か」
「…それも時間の問題だろう」
天衡僧正には、地位も名声も、強い権限も与えられる。
経典を独自に解釈し、それを正統な教義として広めることさえ許される。
『内を見つめ己を究める』
この教えは、先代の僧正であった静玄斎明鏡が説いたものだ。明鏡の没後百年近く経つが、誰もがその教義を疑わず、守り続けてきた――筈だった。
法嶽が天衡僧正の座に就けば、おそらく教義には変更が加えられるだろう。
紅蓮の理こそ真理だと嘯き、外界の支配に手を染める法嶽。
一体何を教えとして説くつもりか。皮肉な興味すら湧く。
紅蓮は湯飲みを降ろし、雷霆に尋ねた。
「あやつが、いかにして導士連の支持を得ているか、知っておるか」
「…界綴り、であろう。少し考えればわかる」
「では、寺院以外の地がどうなっているかも、わかるか」
「残郷――か。まあ、想像はつく」
吐き捨てるように雷霆は言った。
紅蓮は、宙を見たまま呟く。
「どうにか、ならんものかのぅ。わしの友が、そのことで苦しんでおる」
雷霆は改めて紅蓮を見つめた。
友。
紅蓮は、意外にもその言葉をよく使う。
天元の学都で失った友。寂れた村で親のない子を育てる友。八年前に来たときも、たしか友の話をしていた。
(…わしのことも、友と思っておるのだろうか)
目を伏せて答える。
「尼僧院が何も言わぬ以上、こちらから止めるのは難しい」
「早くおぬしが僧正になってくれんか」
茶を噴きそうになる。
「馬鹿なことを。わしなど、法嶽が僧正になれば、真っ先に追い出されるわ」
「追い出されたとて、ついて行く者も多かろう」
紅蓮が、穏やかに笑みを浮かべる。
雷霆は湯飲みを見下ろした。
「…わしにできるのは、内を見つめることだけだ」
――おぬしが、そのままでいいと、八年前に言ったのだぞ。
「外をどうこうする力などない」
「うむ。これからも、そのままでおるのが一番だ」
紅蓮は頷き、立ち上がった。
「茶、うまかったぞ」
「帰るのか」
「ああ――帰る場所が、まだあるからな」
房を出ると、日が傾きかけていた。
山を下りきる前に、日が暮れるだろう。だが、止めたところで聞く男ではない。
山門の前で、紅蓮は振り返った。
「本山が、外界とは異なっていて、安心した」
「自分から出て行っておいて、急に里心がついたか」
皮肉を込めて言ったが、紅蓮の笑みは変わらなかった。
参道を下る後ろ姿が、徐々に遠ざかる。
帰る場所がまだある――その言葉が耳に残る。
(なくなることなど、あるのか)
そのときは、ここへ帰って来るのだろうか。
いや――
外の友のもとで紅蓮が穏やかに過ごせることを、雷霆は目を閉じて祈った。




