第3章 第12幕 那由多
燈都を発つ朝、思いがけず那由多が駄々をこねた。
皆と待っているよう再三言って聞かせるが、閻魔にしがみつき離さない。
ふいにその体が宙に浮いたと思うと、双蛾が抱き上げていた。
「そんなに行きたいの?」
問われ、那由多は真剣な顔で頷いた。
「わかった。じゃあ、私が守る。――それでいい?」
双蛾は閻魔に向かって尋ねながら、早くも那由多を迅の背に乗せている。
閻魔は苦笑し、那由多に告げた。
「双蛾の言うことを、よく聞くのだぞ」
「うん!」
那由多は元気に返事をした。
嶺州を横目に通り過ぎ、さらに東方を目指す。
「双蛾さん、さっきはありがとう」
前を向いたまま、那由多が言った。
「母上に言われたんだ。父上を頼むって」
(星占が…?)
双蛾は、前を走る閻魔へ目を向けた。朗らかに、弁慶と笑い合っている。
「だから一緒に来たかったの?」
「うん…母上の心配、よく当たるから」
不安が、雨雲のように双蛾の胸に宿った。
星占が、案じている。
残郷――。
何かが起きるのだろうか。
――目を、離さずにいよう。
閻魔からも、那由多からも。
日が暮れ、閻魔は岐州で宿をとった。
「ここも南盟の一部だと思うと、胸糞悪ぃな」
食卓を囲みながら、弁慶が毒づく。
睨まれた店員がそそくさと立ち去るのを見て、閻魔がなだめた。
「そう言うな。ここで暮らす民には、何の罪もない」
閻魔は景仁の言葉を思い出した。
廃れていた筈の地だが、安らかに暮らせるようになったのなら、それでよいと思う。
「随分立派な寺が建ってたじゃねぇか…」
弁慶はなおも不服そうに、肴をつまむ。
盃を見つめ、閻魔は黙った。
確かに、町をうろつく僧の数は多かった。
この豊かさは、本当に歪みの上に成り立っているのか。
(隣村の様子を見るまで、断ずるのはよそう)
だが、翌日訪れた隣村で、閻魔は言葉を失った。
荒れ果てた農地に人影はなく、空気が乾いていた。
かつて飢饉の続いた時代を、思い出す。
枯れた井戸を、那由多が覗き込んだ。
「落ちないようにね」
双蛾が声をかける。
「この井戸、きのうの町のほうに、開きっぱなしだね。閉じないと」
那由多は井戸の縁に手をかけ、瞼を閉じた。
閻魔は足を止め、歩み寄った。
「…どうした?」
風が変わった気がした。
井戸の周囲が、一瞬うっすらと光を放ったように見えた。
――水の音?
双蛾と目を見合わせる。
閻魔は井戸の滑車に手をかけ、桶を引き揚げた。
……なみなみと水が溜まっていた。
「那由多…今、何をした?」
無邪気な顔で閻魔を見上げる。
「閉じたんだよ。衡嶺のお山と、一緒だよ」
にっこり笑い、大きく欠伸した。
「でも眠くなっちゃった…」
ふらふらと井戸から二、三歩遠ざかる。双蛾が抱き留めたときには、既に眠りに落ちていた。
――何が、起きた?
閻魔は、双蛾の腕の中で眠る那由多を見た。
――閉じるとか、開くとか、以前にも言っていなかったか。
よく北衡嶺を眺めている那由多。
紅蓮の言葉が蘇る。
法嶽――北衡嶺――尼僧のみに伝わる秘術…
…界綴り……?
那由多の額にかかる前髪を、払ってやった。
目元が、星占にそっくりだ。
母親のように、生まれながらに何かの力を持つことも、あるのではないか。
「…閻魔?」
那由多を抱いたまま、双蛾が囁いた。
我に返り、曖昧に笑う。
「いや、たまたまかもしれんな」
そのとき、弁慶が向こうから歩いてきた。
「おぉ、枯れてない井戸があったか。」
集落の反対側を見て来たようだ。
「水路が干上がって、畑が捨てられてる。村を出てった者も多いんだろうな。――なんだ、那由多は寝ちまったのか」
閻魔は那由多を双蛾から受け取り、再びその寝顔を見た。
――確かめたい。
双蛾の不安気な視線には、気付かなかった。
那由多は、そのまま翌朝まで眠った。
翌日もひとつの井戸に水が湧き、その翌日には水路に細々と水が流れた。
畑の脇の小屋の戸が開き、よろめきながら人が出て来た。
「おお…水が…」
言葉は続かなかった。水路の傍らに膝をつき、僅かな水の流れに手を触れる。その頬を涙が伝うのが、見えた。
「なんだかよ…」
遠巻きに見つめながら、弁慶が呟いた。
「暁の村に、初めて水路が通ったときを、思い出すな」
「そうだな…」
閻魔はその光景に目を細め、腕の中で熟睡する那由多の背を撫でた。
きのうも今日も、何かを『開いた』あと、那由多は深い眠りに落ちた。
閻魔は、確信していた。
那由多には、何かの力がある。それが、界綴りと同じなのかは、わからない。
だが――
(……手が、届くのではないか)
残郷。
蛇蝎亡き後、忘れられた地。法嶽に踏みにじられた大地。
暁は、手放した。だが、手を伸ばすことまで、やめたのではない。
暁を失って以来ずっと靄のかかっていた心に、光が差した気がした。
天元への帰還前に、燈都に立ち寄る。
「双蛾さん、ありがとう。僕、最後のほう寝てばかりだったけど、一緒に行けて楽しかったよ」
那由多は真っ直ぐに双蛾を見つめ、微笑んだ。
「また来いよ」
隣に立つ不知火がその頭を撫でると、閻魔が歩み寄った。
「また来ることに、なるであろう」
那由多を抱き上げ、自信に満ちた目で二人を見た。
「追って、知らせを出す。では、またな」
二頭の禽馬が遠ざかる。
そちらへ目を向けたまま、不知火が言った。
「微妙な顔してるな。何かあったのか」
「……あとで話す」
視線を双蛾へ向け、笑みを浮かべる。
「寄りかかるか?」
「そういうのじゃない」
双蛾は目を伏せて笑い、不知火の胸を拳で叩いた。




