第3章 第8幕 北衡嶺
外界からの文を、妙艶は畳んで懐にしまった。
赤い唇の端が上がる。
――法嶽殿は、力をうまく扱っておられるようだ。
人界の東、暁と呼ばれる地に寺院の建立を始めると、文は知らせていた。
既に南部の寺院は手中に収め、尼僧院にも根回しが進んでいる。
導士連が法嶽を天衡僧正に推すのも、時間の問題か。
――次は、こちらだ。
目の上の瘤、寂峰。
術は確か。教義にも迷いはない。
だが厳しすぎる。ゆえに若い沙尼や行尼には疎まれている。
山の均衡を保つため白嶺院に置いたまま、どうやって勢いだけ削ぐか。
そこまで考えたとき、山の流れに乱れを感じた。
空気が、わずかに軋む。
界門の崩落とともに山脈の地形の一部が変わり、乱れが生じやすくなっている。
此度のほつれは、何処からか――西?
……あり得ぬ。
西になど、何もない。
外に出るのも億劫だ。
寂峰が何とかするであろう。
妙艶はため息をつき、脇息にもたれかかった。
が、騒ぎが近付いてくる。
……寂峰は何をしておる?
重い腰を上げかけたとき、扉が乱暴に開かれた。
外の陽光が目を射る。
逆光の中、人影が振り上げたのは――刀!?
妙艶は反射的に炎を放った。
影が退く。
数珠を手に、立ち上がる。
外へ出る。
目を疑った。
獣皮に身を包んだ男たちが、暴れまわっていた。
宝物殿の戸が破れ、人が倒れているのが見えた。
「妙艶様!賊が――」
言い終える前に、駆け寄った行尼が背後から斬られ、薙刀を手にしたまま崩れ落ちた。
――何だ、これは。
「寂峰!」
叫びながら、炎を走らせる。
「妙艶!」
錫杖を手にした寂峰が、本堂の方から駆けて来た。
「縛り上げるぞ」
言うなり、印を結ぶ。
妙艶も慌てて倣った。
空気が軋み、周囲の尼僧も男たちも膝をついた。
足元の気を引き寄せ、縄のように綯い、男たちの体を捕らえる。
刀が地に落ち、呻き声があがる。
一番大柄な男が、聞き取れぬ言葉で何か叫び、束縛を跳ねのけて立ち上がった。
地の気が跳ね返った反動で、妙艶が後ずさる。
緩んだ束縛を破り、男たちは立ち上がると、一斉に西側斜面へと跳び下りた。
一人が、手近にいた若い沙尼を脇に抱え、攫った。
悲鳴が、崖下に遠ざかって行く。
妙艶は眼下を見下ろした。
寂峰が並ぶ。
――この崖を、登って来たのか。
魔境側から……?
地形変動の影響が、このような事態を招いたのか。
……あり得ぬ。
ゆっくりと、寂峰へ視線を向ける。
目が合った。
岩のようなこの女が慄く顔を、初めて見た。
「…まずは、結界を張り直すぞ。話は、そのあとだ」
寂峰の低い囁きに、妙艶は無言で頷いた。
閻魔は、回廊から西を眺める那由多を見つけ、歩み寄った。
「また山を見ておったのか」
那由多が振り向き、ぱっと顔を輝かせる。
「父上!お帰りなさい」
「わしも星占も不在で、寂しかったろう。泣いて弁慶を困らせたのではないか?」
悪戯っぽく尋ねると、那由多は笑った。
「泣くわけないよ。もう五つだよ!」
頭を撫でてやる。
塞いでいた心が、わずかに和らいだ。
暁の郷からの帰りである。
この先の侵攻を防ぐため、政権を法嶽に渡すことを、郷の皆に告げてきた。
汗を流し、ともに水路を築いた者たち。
泣いて別れを惜しむ声が、余計に胸を重くした。
郷の屋敷で対面した法嶽は、敗者である閻魔に礼を尽くした。――ように、見えた。
「わしは、紅蓮から学んだのでございます。世に広く救いを与えることこそ、天衡道の新しき理。閻魔殿に代わり、この地に永く平穏をもたらしましょうぞ」
紅蓮は隅に控え、ただ目を伏せて黙っていた。
「まずは、民の拠り所として、この場所を寺院に変える」
法嶽は、指で卓を二度叩いた。
「郷の名も、より相応しいものがよいでしょうな。
正しき理の郷――正理郷、などいかがでございましょう」
暁の名が、消えた。
あの日弁慶と見た朝日も、胸の奥に霞んでいった。
「父上?」
呼びかけられ、はっとした。
一瞬、言葉を失い――微笑み、那由多を抱き上げた。
「父上、今日は山の上が開いたままだね。いつもなら、すぐに閉じるのに」
山脈に目を凝らす。白嶺院の塔頭の一つが、山頂に小さく見えるだけだ。
「那由多は目がよいのだな。わしには、よく見えん」
「……歳だから?」
閻魔は噴き出した。このような言い回しを、一体どこで覚えるのか。
「あ、見て。やっと閉じていくよ。……でも、前と違うね」
「うぅむ、見えんなぁ。星占に聞いてみるか」
閻魔は笑い、那由多を抱いて中に入った。
那由多は、肩越しにもう一度だけ山を振り返った。




