第3章 第4幕 紅蓮
嶺州の隣国、岐州の寺院で、紅蓮は目を覚ました。
板塀の隙間から、霧雨が入り込む。
廃寺だが、屋根があるだけましだ。ほかにも数名が、ここで夜を明かしていた。
蓑笠を着て、外へ出る。
空き家が目立つ。放棄された田畑が、叢となっている。
蛇蝎の死後、この地に駐留していた天元軍は一斉に引き上げた。
僧兵の多くは死に、住職であった導士の行方も知れない。
王は既に亡く、民を顧みる者もいない。
(閻魔の手も、ここまでは届かぬか…)
禽馬をひき、人影の乏しい大通りを抜ける。
今日中に、さらに東の国を目指すつもりだ。
大陸南部に点在した天元の支配地は、戦後たちまち瓦解した。
玄統に与した寺院も、恩恵を失い混迷している。
それらの地は、南部旧領と呼ばれるようになった。
「天元だか暁だか知らんが、勝手にやっててくれればよかった」
行く先々で、その声を聞いた。
――われらの理が、綻びを生んだのか。
各地を巡るほど、やり切れなさが募る。
何一つ捨てぬと言った閻魔。
どうすれば、この果てまで、手が届く。
雨が止む。
日の暮れ始めた荒野の先に、集落が見えた。
畑に作物が実り、その先の道を子供が駆けて行った。
家々から、炊事の煙が立ち昇る。
荒れ地の中では、妙に活気がある。
水の手当てが良いのだろうか。
閻魔が水路で村を救った日のことを思い出す。
久々に、まともな宿にありつけるかもしれない。
野宿まがいの旅が、堪える歳になってきた。
寺院の影が見えた。
――導士にも顔を出しておくか。厄介払いを食らうやもしれぬが。
異端と呼ばれて久しい。
こうして外界で他者に関わること自体、教義に背くのだ。
境内が近付く。人だかりが見える。
その中心に、見覚えのある姿。
――法嶽?
村人たちは幾度も頭を下げ、散って行った。
いつから気付いていたのか。門前に佇む紅蓮へ、法嶽が目を向けた。
「おぉ、紅蓮よ。このような所で会おうとは。息災であったか」
「――外界で、何をしておる」
短く問う。
「玄統の浅はかな企みで荒れ果てた南部旧領を、救ってまわっておるのだ」
救う――?
法嶽は肩を揺すり、本堂へと足を向ける。
「この寺にも、新しく導士を置かねばな。雷霆め、いくら催促しても本山から人を寄越さん」
ぶつぶつと、名を指折り数える。
「そうだ、宗明がよいな。あやつは玄統を疎んでおったし」
「ここで何をした」
遮るように、低く尋ねる。
法嶽が立ち止まり、振り返る。
「田畑に恵みを与えておる」
ゆっくりと、紅蓮へ歩み寄る。
「おぬしも見たか。村人たちの、あの嬉しそうな顔を。
わしもこの歳でようやく気付いた。他者を救うことこそ、理だ」
草履が砂利を踏む音が近付く。
「おぬしはずっと、外界と関わってきたな。
そうそう、国を滅ぼすことにさえ、力を貸してやったそうではないか。
異端だと思うておったが…おぬしが正しかったわ」
不敵な笑みを浮かべ、紅蓮の肩に手を置いた。
「……理とは、役に立つものだな」
無言の紅蓮を残し、法嶽は歩き出した。
「次は、岐州とやらへ行こうかのぅ」
去り際に、満ち足りた声だけが残った。
田畑に、恵みを与える――
そのようなことが、一朝一夕にできる筈がない。
何かからくりがあるのだ。
一月以上かけ、紅蓮は集落を探った。
水が巡り、土の色は濃く、奇妙なほどに実りは豊かだ。
人々は法嶽への感謝を口にするばかりで、謎が解けぬ。
やがて紅蓮は、隣村へと足を運んだ。
井戸が枯れ、田畑はひび割れ、村人の目には生気がない。
さらに隣の村を見る。
同じだった。
あの集落だけが、潤っているのだ。
法嶽。
何をした。
記憶を辿る。
雷霆の言葉が蘇る。
「玄統は天元、法嶽は北衡嶺だ」
北衡嶺――女人本山、白嶺院か。
(…界綴りの力、か)
紅蓮も詳しくは知らぬ。地脈を操る秘術――そう聞く。
まさか――
だが、それ以外に説明がつかぬ。
周辺の大地の流れを、変えたのか。
救うためなどではない。
――寺院を、押さえるために。
確かめなくては。
紅蓮は禽馬に跨り、岐州の方角へと走り出した。




