第3章 第1幕 法嶽
時を少し戻す。
法嶽が黒稜院を後にしたのは、数カ月前のことだ。
留守を任せた雷霆には、北衡嶺へ向かうとだけ告げて来た。
玄統の狙いは、知れている。
天元と手を結び、政治の力で各地の寺院を押さえるつもりだ。
外界の寺院は、とうに世俗へ沈んでいる。
だが。
政治よりも興味をひくもの、玄統より勝る霊験を、導士連に対して示せばよいのだ。
痛む足腰をおして、再三ここへ登るのも、そのためだ。
白嶺院の山門を抜ける頃には、息が切れていた。
参道を掃く若い沙尼たちが手を止め、深々と頭を下げる。黒稜院の沙門より、よほど行き届いている。
「法嶽殿」
低い声が呼び止める。
境内の奥から、青灰色の法衣が現れる。
「これは寂峰殿、ご健勝のご様子」
作り笑いで頭を下げる。
「いかに大導士殿といえど、殿方がこうも足繁くおいでになっては、沙尼の心が乱れまする。お控えくださらぬか」
「何を仰せか。拙僧のような老いぼれ、お捨て置きくだされ」
寂峰は、分厚い瞼の下から一瞥をくれると、踵を返した。
(――岩のような女だ)
鼻で笑い、法嶽は歩みを進めた。
社殿が近付く。
寺院らしからぬ甘美な香りが漂う。
「御免――」
黒壇の戸を押し開く。
薄明かりに、艶やかな口紅が浮かび上がった。
「お越しになると思い、香を焚いておりました」
紅色の法衣が近付き、法嶽の手をとる。
「これは妙艶殿、痛み入ります」
導かれるまま部屋へ入り、腰を下ろす。足裏の痛みが、今になり主張し始めた。
「寂峰殿に、また苦言を呈されましたわい」
妙艶が隣へ滑るように座った。
「お気になさいますな。法嶽殿に相手にされぬので、拗ねているのでしょう」
上目遣いに微笑む。口元の皺が深くなる。
笑みを返しながら、内心で嘲る。
(いつまで美しい気でいるのか)
若かりし頃、初めて妙艶を目にしたとき、肝を抜かれた。この美貌を持ちながら、何故修験の道に入ったのかと。
年月は姿形を変え、心の理も変えたのだろう。あの頃の敬虔な眼差しは、もうない。天衡尼正の位を狙い、寂峰を出し抜くためなら、あらゆるものを使う。
――わしのことも。
(いや、それはお互い様か)
「妙艶殿、拗ねておるのは、拙僧も同じですぞ」
法嶽は、妙艶を覗き込んだ。
「此度こそ、よきお返事をいただけぬものか」
「――界綴りの力、でございますか」
妙艶が、スッと身を引く。
負けじと、顔を寄せる。
「悪い話ではない」
妙艶の視線が動く。
「これから先、外界の寺院に天元の力がおよぶ。尼僧院にも。だが、わしが界綴りの力を示せば――」
耳元で告げる。
「意のままに操れる」
赤い唇の端が上がる。
「――私のために、尼僧院にお口添えを?」
「お望みならば」
妙艶は姿勢を正し、向き直った。
紅色の袖から、節くれだった手が伸びる。
法嶽の胸元に、その手を翳す。
ズシン――
胸が地に沈み込む。
目眩。
足元から何かが流れ込んだ。
それが血の道に乗り、体の内を巡る。
そして、また山に帰って行くような――
「道と道を、繋ぐのでございますよ」
我に返る。
「法衣の袖を、縫うように…」
胸元の手が肩へ移り、継ぎ目を伝う。
袖を滑り降り、法嶽の手に触れた。
「ともに、山の頂に立ちましょう」
法嶽は唾を飲んだ。
妙艶の笑みが、急に艶めいて見えた。
「ときに、玄統殿はご息災で?」
山門の外まで見送りに出た妙艶が、尋ねた。
「――何故、お気になさる」
妙艶は、ちらりと外界を見下ろす。
「麓に、気配がございます」
北衡嶺の麓――天元だ。
法嶽が答えずにいると、妙艶は意味ありげに頷いた。
「外界の寺院に天元の力がおよぶ――そういうことで、ございますか」
遥か山裾の気配まで届く。
これも界綴りの力か。
(わしも、この力を使いこなせれば――)
拳に、ひとりでに力が籠もった。
そのとき。
南の空に亀裂が走った。
空が暗転する。
彼方に、黒い光が立ち上り――雲へ届く龍が現れた。
(禁呪…!)
龍がゆっくりとうねり、山脈を見下ろす。
本山を焼く気か。
否、本山より手前――界門か。
「あれはまさか、玄統殿が…」
妙艶が、縋るように腕を掴む。
龍が地へ舞い降りる。山陰に消える。
直後、地鳴り。
南の空が、うっすらと炎に染まる。
「何事だ!」
背後から声が響き、寂峰が山門から飛び出して来た。
見え隠れする龍の姿に、唇を震わせる。
「何とかいたせ!大導士であろう!」
法嶽はハッとして数珠を取り出し、経を唱え始める。
(だが、わし一人の力では…)
地響きが大きくなる。
「妙艶。このままでは、山が崩れるぞ…力を貸せ!」
言うが早いか印を結び、目を閉じ、一心に祈る。
妙艶は一瞬法嶽を見据え、寂峰に倣って印を結ぶ。
揺れの中、動き出す山の気が足元に伝わった。
思わず、経が止まる。
目に見えぬ細い糸が地を這い、機を織るように、山を包み込む。
彼方で轟音が響く中、参道の揺れは収まっていく。
龍の気配が消えた。
空が色を取り戻す。
妙艶が崩れるように膝をついた。
慌てて肩に手を添える。
皺だらけの顔に、大粒の汗が滲んでいる。
寂峰が石段に座り込むのが、背後に見えた。
妙艶は、荒い息を整え、頭巾の下から法嶽を見上げた。
「――この力、うまくお使いなされませ」
肩の手に、手を重ねる。
法嶽は、無意識に握り返した。
登山道を下りる。
見慣れた尾根が裂け、新たな崖道が生まれていた。
閉じた界門を目にし、慄く。
南北の山脈ごとすべて崩れても、おかしくはなかった。
地脈を操る力。
使いこなせるか。
法嶽は平原を見渡した。
戦場の跡が広がる。ここで戦があったのだ。
世界が動き始めている。
口角が上がった。
拳を握りしめ、法嶽は歩き出した。




