第2章 第15幕 天元
零の拳が卓を打った。
地図から燈都の文字が消え、南北の山脈は繋がった。
「お前の刃とやらが、界門を消したのか」
顔が歪む。
玄統の蒼白な顔に向け、ゆっくりと右手を上げる。
「ではお前のことは、私が消す。この無能め」
玄統が固く目を閉じた。
その額に手が届く間際、蛇蝎が言った。
「零。捨て置け」
零は動きを止めた。
「界門はもうよい。それより、備えよ。
次は、ここ――天元が、戦場となる」
零が手を下ろす。
玄統は崩れるように膝を着いた。
地図を見下ろし、零は眉を寄せた。
「どこにも、変化は見られませぬが」
「地図など、見るまでもない。
――あの者なら、そうする」
蛇蝎は面白くもなさそうに、盃を揺らした。
負傷兵と燈都の民を景仁に託し、少数の軍勢を率いて閻魔は旅立った。
燈都は、界門ごと消えた。
蛇蝎にとっては、兵の死も、街の消滅も、ただの記号だ。
地図に墨を置くように、人も街も消す。
その地図上で、暁はさぞ目障りだろう。
次は、暁が消される番だ。
閻魔は燈都で、守るために捨てることを選んだ。だが、もう捨てることはしない。
捨てないために、こちらから行く。
蛇蝎を、打倒する。
地平線の向こうに、天元の街並みが見えて来た。
大通りは、静まり返っていた。
人影はない。黒い甲冑の兵だけが立つ。規則正しく並び、微動だにしない。
ふいに霧が立ち込めた。みるみる広がり、街を覆う。濃く、重く。
兵は辺りを警戒し、霧の中へ目を配る。
足音だけが近づくが、位置が掴めない。
カツン―――
地に、錫杖を打ち付ける音が響いた。
カツン――
カツン――
徐々に霧が晴れていく。
「いたぞ!」
声が響く。路地から兵が現れ、瞬く間に囲まれた。
「あーあ、やっぱりこのまま城まで行くなんて、無理だったじゃねぇか」
面倒そうに不知火が呟く。
「ふん…玄統め。余計なことを」
紅蓮が舌打ちする。
「どうするの?」
双蛾が閻魔を見上げた。
閻魔は前方を見据えた。
できれば市街地での戦いは避けたかったが、仕方ない。
「足は止めぬ。紅蓮、双蛾、ここは任せる」
「それじゃ、先に行くぜ」
不知火が腕を突き出す。青い炎が大通りを駆け抜ける。
兵が飛びのき、道ができる。
「うおぉぉ!ついて来ぉい!」
弁慶に続き、閻魔と不知火が走る。
数名の燈都兵が、その後を追った。
追って駆けだした天元兵の前を、風の壁が塞ぐ。
双蛾が手刀を振り上げていた。
少数と見て、天元軍が押し寄せた。
紅蓮と双蛾は背中合わせに立ち、放射状に風を放つ。道の両脇へ兵が吹き飛ぶ。
ともに残った燈都兵も、負けじと敵を押し返した。
閻魔が城へ辿り着くまで、天元軍はここに足止めする。
燈都に比べれば、拍子抜けするほどの優勢だった。
そのとき。
大気に亀裂が走り、上空に火の玉が現れた。
赤黒く、大きく膨らみ――落ちた。
家屋が崩れ、住人が悲鳴とともに飛び出した。
次いで、また大気に亀裂。
十ほどの火の玉が現れ、四方へ散った。
双蛾が手刀を切る。風が火炎を弾く。弾き切れず、二つが街に落ちた。
悲鳴が上がる。潜んでいた住人たちが狂乱し、通りに溢れ出た。
「玄統――!」
紅蓮が前を見据え、声を上げた。
黒い甲冑の列が割れ、法衣の老僧が姿を現す。
「久しいな、紅蓮……異端の者よ」
「異端はどちらだ。これが、おぬしの理か!」
紅蓮が睨みつける。
玄統の背後から、若い男が歩み出た。
「玄統よ。手を休めるな。界門での失態を、挽回せよ」
青白い顔、豪奢な衣。
残忍な笑みを浮かべる。口元が歪む。
「こやつらは、住民を見過ごせぬ。街ごと焼き払って、仕留めるのだ」
街ごと、焼き払う――
紅蓮の脳裏を、燃える学都の光景がよぎった。
同じだ。何もかも。
五十年前から、変わっていない。
「双蛾、避難を。ここは――わしが決着をつける」
双蛾は紅蓮の横顔を見た。
一瞬だけ目を伏せ、振り返ると、声を上げた。
「東西に散って、避難の誘導!南門で合流!」
双蛾の号令で、燈都兵は一斉に駆け出した。
紅蓮はずっと考えてきた。
天元に理はあるのか、と。
長年の繁栄がその結果であるのなら、それもまた理かと、思ってきた。
だが、やはり違う。
紅蓮は右手を握りしめた。
この手に宿る、轟炎の力。
街を焼き払う――それさえ出来る力だ。
今、この力を、守るために使う。
紅蓮はゆっくりと拳を持ち上げ、眼前で手を開いた。
その掌に、小さな火が灯る。
玄統が錫杖を頭上に掲げた。
再び大気に亀裂が走る。
上空に現れる、無数の火の玉。膨らみ、頭上を覆う。熱気が地上まで届く。
――街を焼かせはしない。
紅蓮は、火の宿る右手を、天に向け突きだした。
そして、引く。
空が、歪んだ。
頭上の火塊が、わずかに揺れた。
次の瞬間。
轟音とともに、火が落ちた。
否、落ちたのではない。引き寄せられた。
無数の火の玉が、一点へと収束する。
渦を巻き、裂け、押し潰され――紅蓮の掌へ、吸い込まれていく。
「な――」
玄統の声が掻き消えた。
熱が、集まる。
押し寄せる。
膨張する。
紅蓮の腕が、軋む。
皮膚が焼ける。
それでも、離さない。
拳を握る。
一瞬、世界から音が消えた。
「……これが、わしの理だ」
紅蓮は、腕を振り抜いた。
圧縮された炎が、一直線に奔った。
空気を裂き、地を抉る。
黒い甲冑の列ごと、玄統を呑み込む。
爆ぜる。
遅れて衝撃が来た。
玄統の身体が宙に浮く。
錫杖を手放し、地に叩きつけられる。
炎が消える。
カラン、と無機質な音を立て、錫杖が倒れた。
焦げた地面の中央に、玄統が転がっていた。
動くものはなかった。
兵の視線が玄統に集まる。
紅蓮は、錫杖に縋り、辛うじて立っていた。
右腕の感覚がない。
目が眩む。
乱れる呼吸を抑え込む。
「最後まで無能だったな」
突然声がした。
立ち尽くす兵の間から、男が進み出る。
倒れ伏す玄統を一瞥し、その頭を踏みつけた。
周囲を見回す。
「何をしている。相手は一人だ。殺せ!」
兵士たちが、我に返ったように、紅蓮を見た。
数人が、にじり寄る――だが、それ以上踏み出せない。
脳裏に焼き付いた轟炎が、兵の足を止めている。
中央の男が、苛立ちを露わに声を上げる。
「駒の分際で、命を惜しむか。愚か者め!」
手近の兵の頭を、兜越しに掴む。
睨み付ける。
兵の体が、不自然に跳ね――そのまま力が抜けた。
兵は、その場に崩れた。
紅蓮は目を見開いた。
(今――何をした)
「使えぬ駒などいらぬ。一族もろとも消すまでだ」
伸ばした手を、別の兵に向ける。兵が後ずさる。
「あの男を殺すか、さもなくば――」
顔を歪め、紅蓮を見据えた。
次の瞬間、兵が押し寄せた。
動かぬ右腕を垂らしたまま、紅蓮は錫杖を振った。
風が前列を吹き飛ばす。すぐに後列が迫る。兵たちは半狂乱で向かってくる。
(――あれが、天元の理か)
後方に立つ男を、紅蓮は見据えた。
錫杖を突き上げ、天を掻き回すように振る。
風が集まり、うねりを上げる。
竜巻が紅蓮を包む。
近寄る兵が、跳ね飛ばされる。
紅蓮は歩み出る。
兵の列を割るように、男へ近付く。
男が目を剥いた。
「誰か、余を守れ!」
兵の近づく隙を与えず、錫杖を突き出し、鳩尾を撃ち抜く。
男が後方に飛び、倒れた。
竜巻が鎮まる。
男は呻き声を上げ、起き上がった。
「貴様…ただで済むと思うな。父上が――」
(父――蛇蝎の子か)
「おい!貴様ら、余を助けよ!」
兵は硬直し、動かない。
男は悪態をつき、腰の剣を抜いて振り回した。
錫杖で弾き飛ばす。
男の息が荒くなる。
尻餅をついたまま、後ずさる。
「殺すな…父上のところへ、連れて行け。話を――」
(……)
紅蓮はため息をつき、歩み寄った。
膝をつき、錫杖を地に置いた。
動くほうの手を差し伸べる。
そのとき、突然男が身を起こした。
手を突き出し、紅蓮の顔面を掴む。
「かかったな!馬鹿め!」
男の顔が醜く歪んだ。
息が詰まる。
紅蓮は目を閉じ、焼けただれた右手に力を込めた。
右手から炎が巻き起こり、広がり、紅蓮の体を包む。
顔から手を伝い、男のほうへ――
「や…やめろ…」
男の言葉は燃え盛る火炎に飲み込まれた。
誰も、身じろぎもせず、立ち尽くす。
やがて火が収まる。
紅蓮が立ち上がった。
焼け焦げた男の腕が、崩れ落ちた。




