第2章 第14幕 刃
天元正規軍。
揃いの黒い甲冑。兜の目庇は深く、表情は見えない。
個は消え、駒のように動く。
弁慶が圧倒されたのは、巨鳥が戦場を襲ったあとの敵の動きだった。
両陣営にとって災厄であった、あの一撃。大地が抉れ、横たわる亡骸とともに、生きた兵も飲み込まれた。
燈都軍が混乱に陥る中、天元軍は一糸乱れず進軍を続けた。
同朋の死にも、自らの身の危険にも、感情の揺らぎすら見えなかった。ただ、命じられた通りに進むだけだった。
怒号で士気を引き戻しつつ、弁慶の背筋は冷えた。
(こいつらは、同じ人間なのか)
初めて天元を訪れたときに目にした、無言の処刑が脳裏をよぎる。町人たちは、目を背けながらも、すぐに何もなかったかのように日常を取り戻した。
(天元にいたら、心のどこかが、死ぬんじゃねぇか)
剣を振るい、敵陣を崩しながら、弁慶は蛇蝎への怒りを募らせた。
「こいつらに、大事な燈都を渡しはせん!
行くぞ!!」
巨鳥の打撃から立ち直った燈都軍は、弁慶の号令で一斉に前線を押し返し始めた。
双蛾が北へ走る。
星占は迅の首にしがみつき、前を見据えた。
揺れには慣れた。
だが、恐怖は消えない。
目の前で人がバタバタと死ぬ。
川で死んだ幼馴染みを思い出す。
死なせまいとついて来た、閻魔のことを思う。
その死と、戦場の死は、違うのか。
双蛾は強い。揺れない。戦場で、そんなことを考えない。
私は――
山脈の切れ目。その先が燈都。そこを走り抜ければ、北の戦場だ。
城が見えた。
城――
目の前に、炎が見えた。何もない筈の空間に。
そして、消えた。
今のは――
「双蛾、止まって!」
「…星占…?」
「止めて!」
双蛾が息を飲み、速度を落とす。
後続の禽馬の脚も、止まりかける。が、
「――先に行って!弁慶の指示に従って!」
双蛾の号令で、騎馬隊は脇を駆け抜けた。
――ここが、分かれ道だ。
私は、このために来た。
振り返る。
「連れてって。閻魔さんのところに」
双蛾が頷く。
迅が駆け出した。
閻魔は、盤面を睨み付けた。
足元には、伝令や戦略の書き殴りが何枚も散らばっている。
南は、守り切った。
あとは北。
――退けられる。
禽馬が一頭、卓のそばに寄った。
新たな伝令か。
顔を上げ、止まる。
「星占――」
双蛾の手を借りて下馬すると、星占は閻魔の正面に立った。
「なぜここにいる。城で待てと言った筈だ」
「城が燃えます」
閻魔は絶句した。
星占の目に、息を飲む。
「城にいる人達に、早く避難の指示を」
――本当なのか。
閻魔は固唾を飲み、口を開いた。
「…双蛾」
短く呼びかけると、双蛾は飛ぶように走り出した。
弁慶が、最前列を薙ぎ倒す。すぐに次が出る。
無限に湧いてくる、黒い甲冑。
だが、先ほど駆け付けた騎馬隊が、南の勝報をもたらした。
士気が上がる。
「よぉし!こっちも続くぞぉ!」
弁慶の声に、おお!と皆が応じたとき。
天元軍の遥か後方に、黒い光が走った。
地から天へ。
晴れていた空が、突然沈む。
黒い光は渦を巻き、一本の柱となる。
うねり、形を変え――龍が姿を現した。
「おい…なんだ、あれ」
禽馬を走らせながら、不知火が呟いた。
魔獣――ではない。
実態が見えない。
「……禁呪だ」
隣を走る紅蓮が、短く言った。
――禁呪?
不知火は紅蓮を見た。
表情の消えた横顔。
「全て……あれを呼ぶための、時間稼ぎだったのか…」
見開かれたその目に、龍が動き出すのが映る。
立ち尽くす閻魔の元へ、補給隊の焔が駆け寄った。銀狐と黒鉄も続く。
「オッサン、あれ…」
黒い龍が、空を滑る。
頭上を通り抜け、城へ――
ぶつかる――!
避難を誘導し殿で出て来た双蛾が、愕然として空を見上げた。
次の瞬間、龍の頭が城の頂に叩きつけられた。
爆ぜる。
「双蛾!」
黒煙が上がる。視界が消える。
煙に紛れ、双蛾が見えた。風の壁で火の粉を避けつつ、城を出た人々とともに退いて来る。
城が、火を噴く。
「…消せ!火を消せー!」
焔の声に、弾かれたように数人が走り出した。
「だめ!」
星占が叫ぶ。
「行っちゃだめ。死ぬ」
焔が止まる。
視線が閻魔に集まる。
閻魔は城を見上げた。
龍の体が、砕けた最上階から城の中へと吸い込まれていく。
火の勢いが上がる。
――城は、守り切れん。
閻魔は息を吸い、声を上げた。
「周囲を崩せ!延焼を止める!」
皆、走り出した。
周囲を崩しても勢いは止まず、炎が地を這って広がる。
双蛾が先頭に立ち、人々を街の外へ逃がす。
避難の指揮を執りながら、閻魔の心は乱れた。
――この街を、奪いに来たのではなかったのか。
なぜ壊す。
界門の地さえ手に入れば、それでよいのか。
街も、そこに暮らす人々も、いらぬというのか。
「あれは、禁呪の炎だ――焼き尽くすまで、収まらん」
いつの間にか、紅蓮がそばに来ていた。
「焼き尽くすまで――街を、か」
「何もかも、だ」
人も―――か。
閻魔の胸に、失った故郷の景色が押し寄せた。
焼け跡となった村。握り返すことのない、小さな手。
あのときは、村も、人も、守れなかった。
だが、今は――
傍らに佇む星占を見た。
目が合う。
星占が頷いた。
「人だけは、守る。
そのために、街を捨てる」
閻魔ははっきりと告げた。
「閻魔の口から『捨てる』なんて、初めて聞いたな」
振り返ると、不知火がいた。
いつもより、ほんの少し寂し気な笑み。
「…俺は何すりゃいい?」
紅蓮が歩み寄る。
「わしと来い。少しでも食い止める」
「よし」
言うが早いか、二人は駆け出す。
閻魔と星占が残された。
熱風が吹き寄せる。
「わしは、ここで見届ける。そなたは――」
双蛾のもとへ、と言いかけ、その目を見て止まる。
「…ここにいてくれ。
わしの選んだ未来を、見届けてくれ」
「はい」
星占は真っ直ぐに立ち、ともに、燃えゆく街を見据えた。
城が崩れ落ちた。
火の粉が舞い、そこからまた龍が立ち上がる。
空中でうねる。
次の獲物を見つけたのか、向きを変えた。
南方へ逃げ行く人の行列を目がけ、襲いかかる。
「行かせねぇよ!」
不知火が跳び、大剣を真上に薙いだ。
切っ先が鼻面を打ち、龍が退く。
「うおっ、あちぃ!」
地に降り立ちつつ、不知火は体から火の粉を払った。
「禁呪を剣で押し戻すとは、まったくおぬしは想定外だのぅ」
遅れて走り寄った紅蓮が、痛快そうに言う。
錫杖を地に突き立て、数珠を取り出す。
「なんとか勢いを削ぐよう、わしも手を尽くす。
皆がなるべく遠くへ行くまで、ここを通すな」
紅蓮は目を閉じ、経の詠唱を始めた。
山頂の崖から巨鳥を落とし、雷霆が一息ついたとき。
空が、色を失った。
北方に立ち込める暗雲の中に、黒く光る龍が見えた。
(あれは――)
龍が身をくねらせた。
すぐに山陰に隠れ、見えなくなる。
「雷霆様、まさか……玄統様か法嶽様が、あれを…」
下位の僧たちがざわめく。
(そこまで、理を曲げるか)
怒りが沸く――それを、抑える。
心を鎮める。
数珠を取り出し、雷霆は目を閉じた。
静かに経を唱え始める。
ざわついていた僧たちが、次第に静寂を取り戻す。
一つ、また一つ、経を詠む声が増えていく。
外へ出ようとするたび、不知火が跳ね返す。
龍は怒り狂い、建物を次々に飲み込む。
街が焼け野になる頃、龍が苦しみ出した。
暴れては、地に体を打ち付ける。
蒸気が上がる。
熱と衝撃で、大地がひび割れる。
龍は反転し、山脈の岩壁へ。
衝撃で、砕けた岩が落ちる。
南北の断崖が、連鎖するように、音を立てて崩れ始める。
やがて、地響きとともに山が崩落し、土砂が押し寄せた。
轟音が響き渡る。
地鳴りが戦場を揺らす。
不知火は大剣を振り上げ、崩土の中へ龍を弾き飛ばした。
燃え尽きた街ごと、龍は土石に埋まり、消えた。
音と土煙が止み、静寂が訪れた。
空は、いつの間にか晴れ渡っている。
界門が、埋まった。
元々そこに山脈の切れ目などなかったかのように、壁が聳えていた。
閻魔は、無言で壁を見つめた。
鵺に乗った不知火を追いかけ、魔境の地から望んだ界門。
ここでともに過ごした、活気ある魔境の仲間たち。
何度も崩れながらも完成した、歪な城。
――何も、なくなった。
足音が近づく。
振り返ると、弁慶だった。
「敵はあっさり帰っちまったぜ。もうここは、いらねぇんだな」
閻魔はまた壁に目を向け、自嘲気味に言った。
「街を炎で失うのは……二度目だな」
「でもよ…今度は人が残ったじゃねぇか」
言葉が出ない。
星占が、静かに言った。
「私には、二つの未来が見えていました。
たくさんの人が死ぬ未来と、生きる未来。
どちらを選んでも、街は燃えました…」
双蛾が迅に乗り、戻って来た。
「街の人はみんな無事だよ。景仁が、救護部隊を送ってくれた」
閻魔に告げたのち、星占を見る。星占が頷いた。
壁を背に、紅蓮と不知火の姿が見えた。
「人さえ残っていればよ…いくらでも、やり直せる」
弁慶が拳を突き出した。
閻魔は自分の手を見つめた。
初めて、捨てることを選んだ。
だがそれは、守るためだ。
――同じではない。
蛇蝎のやり方は、痛いほどわかった。
もう二度と、大事なものを、お前に傷つけさせはしない。
――対決する。
閻魔は拳を握りしめた。
弁慶に向き直り、しっかりと拳を合わせた。




