第2章 第12幕 燈都
星占は、禽馬に乗れないことを、猛烈に後悔していた。
小さい頃、双蛾は迅の背に星占を乗せ、河原の散歩に連れて行ってくれた。なぜそれで満足してしまったのだろう。練習しておけばよかった。
閻魔について行くと勢いで宣言したものの、どこへ行くにも禽馬が必要だとは、考えてもいなかった。
村を出るその時になり、禽馬に乗れないと聞いて、閻魔は少し驚いた顔をしていた。
想定外だったのだろうが、自分の禽馬の前に乗せてくれた。
疾駆する禽馬に乗るのは、河原の散歩とは、まるで違った。
頬に当たる風の鋭さ、移り行く景色の速さ、体に伝わる振動。
すべてが新しく、狭かった世界が、一気に広がった。
覚悟を背負って村を出たことを、ひととき忘れたほどだった。
星占が落ちぬよう、閻魔はさりげなく手を添えてくれていた。冷たい風が吹きつける中、背中にだけは温もりを感じた。
(この人の未来を変える。破滅から守る)
揺れる景色を見据え、星占は改めて決意した。
(…ウマにも、乗れるようになる)
だが、まだ乗れない。
数か月訓練を積んでも、一人では跨ることさえできない。
自分の不器用さが嫌になる。
双蛾のように颯爽と戦場を駆け巡れたら、閻魔のために、もっとできることがある筈なのに。
あれ以来、不吉な未来を垣間見ることはない。
「天元の動きに警戒が必要」
そうした言葉は漏れ聞こえてくるが、今の閻魔に、破滅の兆しは見えなかった。
郷の畑仕事や館の掃除を手伝いながら、星占は、ここに来た意味を見失いかけていた。
閻魔が、郷の重役との会合を終え、帰って来た。
「明日、燈都へ向かうが、そなたはどうする」
燈都。双蛾がいる。
行きます、と言いかけて、移動手段の件に思い至る。
ここで待つほうがよい。
足元を見つめ、そう告げようと閻魔を見上げたとき。
世界が暗転した。
――軍勢――戦――鳥――燃える街。
その先が、二つに分かれた。
一つは焼け焦げた人の群れ。もう一つは立ち尽くす人々――
「…星占。どうした」
足元がよろめいた。
閻魔の手が肩を支えた。
――何か。何かが起きる。
未来が分かれるなんて、初めてだ。
呼吸を整えた。
「行きます」
閻魔の目を真っ直ぐに見つめ、星占は告げた。
燈都の城。
無計画な増築で出来上がったその建物は、雑多な街の象徴だった。
回廊の傾きや突然の段差、歪な部屋にも、皆愛着を持っていた。
軍議を行う最上階の部屋は、東からは五階、西からは六階にあたる。
その屋根が、付近で一番高い。
不知火は、その上に立ち、北を見ていた。
風が、臭う。
魔境も人界も、見える景色はいつも通りだ。
だが――何かが違う。
「おぉい、不知火」
下から呼び声。
見下ろすと、閻魔が禽馬を降りたところだった。
手を貸して下ろしてやっている女は――
「あぁ、星占って、あいつか」
双蛾の村での記憶が繋がった。
不知火は閻魔に向かって軽く手を振り、地上へ跳び下りた。
「よぉ。道中、何かなかったか」
単刀直入に聞く。
北の情報がほしい。
「大きな変化はない。だが――僧の数が増えている」
閻魔が答えた。
天衡道――紅蓮の話がよぎる。
僧兵の力を抱き込んだ天元軍が、北から押し寄せる――?
「…それだけじゃねぇ気がするんだよな」
不知火の呟きに、閻魔は眉を寄せた。
この違和感の正体は何だ。
不知火は顎を撫でる。
見落としていることはないか。
「……南か?」
僧が増えている――それは景仁も感じていた。
本山へ登る前に嶺州の寺院に立ち寄る僧は、以前から見られた。
だが最近は、本山へ向かわずに出入りする者が多い。
隣国へでも向かうのだろうか。
隣国――既に天元の手に落ちた国、岐州。
震蟲の一件以来、嶺州への侵攻はない。
だが、岐州をはじめ、周辺の国は次々と落とされた。
燈都で紅蓮の報告を聞いてから、再度の侵攻に備えてはきたが…
そこまで考えて、違和感を抱く。
――狙われているのは、この国ではない?
地図を開く。
僧の出入り。南部の属国。天元と天衡道の結託――
「……まさか」
南部の寺院を、全部繋いだのか。
景仁は立ち上がった。足が震える。
「…燈都に、使いを」
閻魔は、燈都の南北に軍を配備した。
不知火の勘と、景仁の報せ。
敵の主力は、おそらく南だ。
弁慶に北を任せ、ほかは全て南に集めた。
やがて、南方に軍勢の影が現れた。僧形の兵。
「ほらな。やっぱりジジイのお仲間は、南から来たろ?」
不知火は薄く笑うと、紅蓮の肩に肘を乗せた。
「…なぜ楽しそうなのだ」
紅蓮が苦い顔で睨む。
「やっと一緒に戦えると思ってな。山では断られたし」
不知火は目配せし、大剣を抜いた。
暁の本軍と、燈都の雑兵が並ぶ。
歩兵隊のざわつきの中、周囲を窺いながら走り回っていた星占は、ふいに腕を掴まれた。
振り返る。
険しい顔の双蛾がいた。
「前線まで出て来るなんて。閻魔は知ってるの?」
星占は俯く。
「…城で待ってろって」
「当たり前よ。ウマにも乗れないのに。何かあったら、どうやって逃げるの」
「…双蛾こそ、早く指揮に戻らなきゃ」
「帰りなさい」
星占の言葉を遮るように、双蛾が言い放つ。
言葉に詰まる。
だが、引き下がれない。
星占は顔を上げた。
「帰らない。未来が見えた。ここで、何か起きる」
双蛾が黙る。その目が、わずかに揺れた。
隊列の前方で声が上がった。
双蛾はちらりとそちらを見た後、何かを決意したように頷いた。
「わかった。乗って」
星占を迅の背に押し上げ、自分も跨った。
「私が守る」
そのまま列の先頭へ躍り出る。
軍が衝突した。
怒号が弾ける。
刀と錫杖がぶつかり、火花が散る。
炎が走り、風が巻き、雪が舞う。
その上を、低い経の声が覆っていた。
「…これが、おぬしらの理か」
紅蓮が手を挙げた。
風向きが変わる。
呪が、術者へ返る。
不知火の青い炎が、隣で爆ぜた。
兵を押し戻す。
双蛾の率いる騎馬隊が山脈側から回り込み、敵左翼を挟撃した。
閻魔は城の前の本陣で、盤面を睨む。
伝令に合わせ、駒を動かす。その手に汗が滲む。
――悪くない。守り切れる。
閻魔が小さく頷いたとき。
「こっちも来やがったぞぉー!」
北の前線から、弁慶の雄叫びが轟いた。
星占は、迅にしがみつくので精一杯だった。
激しい揺れ。
槍がぶつかるたび、振り落とされそうになる。
飛び込んだ隊を押し返そうと、前後から兵が迫る。
双蛾が手刀を切る。
足元から風が立ち上がり、敵を弾いた。
(双蛾…いつもこんな前で戦ってるの…)
戦場のことを、知らなかった。
知らなければ、守れない。
必死に目を開け続けた。
「…大丈夫?」
敵陣を見据えたまま、双蛾が言う。
「分断したら、北へ回る。あっちでも始まってる」
頭がくらくらする。
この臭いは、知っている。
——あの未来で嗅いだものだ。
——血だ。
血の臭いが、戦場に満ちている。
そのとき、影が戦場を横切った。
一瞬、全員が動きを止める。
上を見上げた。
山脈の向こうから、天を覆う巨鳥が現れた。




