第2章 第11幕 蛇蝎
薄暗い王の間。
冷たい大理石の卓上に、人界の地図が広がる。
蛇蝎はその前に立ち、静かに目を走らせる。
手を翳す。
地図上の所々の文字が、掌に吸い寄せられ消えていく。
紙面で色が動き、形を変える。
再度手が揺らぐと、掌から文字が舞い落ち、いくつかの地名が現れた。
王の間に居ながらにして、世の動きを読み取る力。
代々受け継がれる、王家の力の一つだ。
父は、民に寄り添うことを美徳とした、凡庸な王だった。
先代の治世に反発し、弱者を救おうなどと考えた。
集めた税を広く分配し、農村の支配体制の見直しに着手した。
王家への不満は日増しに高まり、官吏たちが統治に口を出し始めた。
貴族や高官の間に派閥ができ、一部の者の権力が増した。
統治は分裂した。
天元が、ありふれた国に成り下がっていく様を、蛇蝎は目の当たりにした。
――自分ならば、誰にも口出しなどさせない。
ある日蛇蝎は、いつもと同じように玉座の父王へ近づくと、手を伸ばして額に触れた。
驚きを瞳に浮かべたまま、父王の呼吸は止まった。
王家に伝わる、もう一つの力。
愚かな父が、一度も使うことのなかった力だ。
王家の歴史の中でも、それが肉親に対して用いられた記録は、数少ない。
蛇蝎の即位後、歯向かう声をいくつか消しただけで――それだけで、国家は安定した。
蛇蝎にとっては、祖父こそが理想であった。
国家の安寧に不要なものを、祖父は全て排除した。
反乱を起こした農村は皆殺しにし、その地に別の民を住まわせ、危険思想の温床となる学都は、住人ごと焼き払った。
蛇蝎の生まれた頃には、すでに絶対君主であった。
血で国を固めた王だった。
「国家とは、集め、選び、整えるものだ」
祖父の思想を研ぎ澄まし、蛇蝎は国家の礎を盤石とした。
経済は伸び、軍は肥えた。
地図を広げると常に、人界の北東部一帯が、青紫色に揺るがず染まる。
「天元」の文字が燦然と輝く。
――美しい。
蛇蝎は地図を眺めては、恍惚とした。
やがて蛇蝎の目は、外へと向いた。
秩序が美徳であるならば、混沌は、是正されるべき悪徳だ。
小規模勢力の乱立する人界は、まさに混沌である。
地図を広げるたびに、天元の外が色を変えることに、苛立ちが積もった。
――醜い。
見るに堪えず、地図から顔を背けた。
ある時、違和に気付く。
外に、色の変わらぬ領域が生まれていることに。
天元の遥か東方。初めは小さな点のようだった赤い光が、いつの間にか静かに広がっていた。
掌から舞い落ちた文字を読む。
暁――記憶の片隅に、小さなひっかかりを覚えた。
―――あの男か。
手を伸ばす、などと言っていた…。
名は、何と言ったか。
軽く手を振ると、二つの文字が落ち、赤い光に吸い込まれて消えた。
閻魔。
蛇蝎は再度地図を見た。
今や、天元の美しい青紫に迫るほど拡大した、赤。
だが。
この光の中は、歪に違いない。
父と同じことを言う者に、美しい国など作れぬ。
――整えねば。
以来、蛇蝎は外を整え始めた。
改めて地図を眺める。
人界のあちこちに、今は青紫の光が宿る。
次に整えるべき場所は、既に決めてある。
そのための準備も進めている。
蛇蝎の目が地図を滑り、一点で止まった。
南北に黒い帯のように横たわる衡嶺山脈。
その切れ目に、静かに灯る赤――
燈都。
扉が開いた。
この部屋に、許しも得ずに入って来る者は、一人だけだ。
「父上」
蛇蝎は視線だけを動かし、息子を見た。
何の表情もない顔。
零――名の通り、まだ何者でもない。
歩み寄り蛇蝎の前に立つと、零は地図を見下ろした。
蛇蝎と同じ一点で、目を止めた。
骨ばった指を差し出し、「燈都」の文字を押し潰した。
「ここに刃を差し向けるのでございましょう」
蛇蝎を見上げる。
ゆっくりと口角が上がった。
「その刃が…玄統と申す者が、参っております」




