第2章 第10幕 故郷
夕方には次の村に着いているはずだった。
燈都への帰路、急に雲行きが変わった。
降り出したと思ったら、もう土砂降りだ。
夕日が落ちて辺りは暗い。雨は刺すように冷たい。
そう言えば、もう秋だった。
「おい、これウマ進めなくなるぞ。戻ったほうがいいんじゃねえか?」
後方で焔が叫ぶのが、辛うじて聞こえた。
戻ると言っても、ひとつ前の村までは半日。ましてやこの悪路。
「ツイてねぇなぁ…」
不知火は呟いた。
敵襲はなさそうだが、雨をしのげる場所も見当たらない。
――こんな場所で夜営かよ…
仲間も禽馬も消耗するだろう。天候を見誤った。
お前ら、すまん。と言おうとしたとき、双蛾が隣へ禽馬を寄せた。
「私の故郷の村が近くにあるから、泊めてもらえるか聞いてくる」
「村?この辺り、何度も通ってるけど村なんてねぇぞ?」
「結界で隠してるの」
結界?
「軍で行ったら驚かせちゃうから、ここで待ってて」
言うが早いか、双蛾は走り出す。
あっという間に、雨の中に消えた。
戻って来た双蛾について行く。
辺りはもう真っ暗で、足元も悪い。
「こんな道、あったんだな」
黒鉄が呟いた。
林道を抜けると、本当に村があった。
暗がりの中でも、貧しい村だとわかる。
一軒の家の軒下に、松明の明かりが揺れている。
双蛾が禽馬を下り、一同もそれに倣う。
軒下には、数人の男と一人の老婆が立っていた。
「ごめんね、みんな。迷惑かけて」
双蛾が言うと、男の一人が笑った。
「なぁに、双蛾ちゃんのお仲間なら遠慮はいらないさ。
どこも狭くて申し訳ないがね、二、三人ずつに分かれてついて来てくれ」
仲間たちはバラバラに礼を言い、それぞれの家へついて行った。
老婆が不知火を見上げた。たくさんの深い皺。温和な目。
「お前さんが、大将かい?」
「そうだ。婆さん、恩に着る」
頭を下げると、老婆が笑った。皺がいっそう深くなる。
「いいんだよ。それじゃ、お前さんはウチに泊まりな。――双蛾はどうする。家に帰るかい?」
気付くと、双蛾は少し離れ、雨に打たれて立っていた。
「…星占の家に泊まる。今は、誰も住んでないんでしょ?」
星占?どこかで聞いた名だ。暁の郷か?
老婆は、静かに何度か頷いた。
「私が鍵を預かってる。開けてやろう。傘は――いらんようだね」
雨の中へ歩き出しながら、振り返る。
「中に入って、待ってておくれ。すぐ戻るよ」
二人の影は、すぐに暗がりに消えた。松明の明かりが小さくなっていく。
――なんか、今日の双蛾、変だな。
不知火は濡れた顔を腕で拭った。
引き戸を開けた瞬間、光とともに甲高い歓声が飛び出した。
「双蛾おねえちゃんの仲間なの?」「家来?」「強い?」
子供が四人、駆け寄ってきた。
きゃあきゃあと騒ぎながら、取り囲む。
一人が手拭いを差し出し、手を引いた。
「おいでよ」
――よそ者が珍しいのか。
不知火は笑みを浮かべ、その子を高く抱き上げた。
「誰が家来だ。俺は天下の不知火様だ!」
天井近くまで放り投げ、落ちてきたのを抱き止める。
大歓声。
僕も!私も!と皆まとわりついた。
双蛾と神楽は、暗い道を無言で歩いた。
自宅を通り過ぎ、しばらく行くと、星占の家だ。
神楽は戸口の前に松明を置き、袂から鍵束を取り出した。
星占の小さな畑が、ぼんやりと見える。
星占がいないという実感が、まだ湧かない。
戸が開いた。
神楽は松明から火をとり、小さな燭台に灯した。
片付けられた狭い部屋が浮かぶ。
「あの子が出て行ってからも、時々布団は干してるからね。すぐ使えるだろう」
炊事場から手拭いを取ると、双蛾に手渡した。
濡れた体を拭きもせず、双蛾は呟く。
「…オババは知ってたの?
星占の力のこと…」
「…知ってたよ。悩んでいたこともね」
神楽は上がり框に腰掛け、双蛾を見上げた。
「私、村を出ずに、もっと星占と一緒にいればよかった。外に出ることが守ることだと思って、勝手に離れた。一人であんなに思い詰めて――閻魔に、ついて行くなんて」
俯いたまま一気に言うと、双蛾はしゃがみ込んだ。
「…破滅って何?
…星占、どうなっちゃうんだろう…」
膝が震えている。寒さのせいではない。
屋根を叩く雨の音だけが聞こえる。
「…泣いてるのかい」
顔を伏せたまま、双蛾は首を振る。
「泣いてない。泣かないって決めてるから――でも…」
言葉が続かない。
やがて静かに神楽が言った。
「…お前のせいじゃない。あの子が自分で、守るものを決めて、覚悟して出て行ったんだ。
――お前と同じだよ」
双蛾は顔を上げ、神楽を見た。
「お前が出て行くときも、あの子が出て行くときも…ほかの子たちが何かを始めるときも、そうだった。
心配でもね…信じて見守るしかないんだ」
信じて見守る――双蛾も、そう決めていた筈だった。
こんなにも苦しいものだったのか。
「自分で決めて、覚悟を持って進むなら…きっとそれが、その子の『理』なんだから」
「…紅蓮みたいなこと言う」
双蛾は力なく笑った。
「昔、そんな話をよくしたのさ」
神楽は微笑み、立ち上がった。
「雨が止んできたようだね。明日晴れたら、田畑の手入れをしないと。刈り入れ前でなくて、よかった」
双蛾の横を通るとき、ぽんぽんと頭を撫でた。
髪から雫が落ちる。
神楽は戸口に立ち、もう一度双蛾を見た。
「よくお休み。お前も、休んだり、立ち止まったりしても、いいんだから」
双蛾はようやく立ち上がった。
闇に消えていく神楽を見送る。
(…星占の覚悟が、私と同じ…)
ならば、誰にも止められない。
(…私も、見守るしかないんだ――オババみたいに)
双蛾は長く息を吐き、背筋を伸ばした。
老婆が帰って来たのは、不知火が子供たちを布団に運んでいる時だった。
やれ肩車しろ、腕にぶら下がらせろと散々はしゃぎ、ひとしきり遊ぶと、示し合わせたように眠ってしまった。床で寝る者、不知火の膝で眠る者、誰も布団に入っていない。
しょうがねぇな、と一人ひとりを運んでやった。
「寝かしつけてくれたのかい。ありがとねぇ」
「勝手に寝たんだ。それより、こっちこそ礼を言う。本当に助かった」
座り直し、改めて頭を下げた。
老婆は微笑み、炊事場に向かった。
「残り物しかないけど、何か食べるかい?お茶も入れようか」
「手伝う」
不知火は立ち上がった。
茶を入れ、囲炉裏の側に並んで座った。
雨音がやみ、子供たちの寝息が聞こえた。
あいつもここで育ったのかなと、ふと思った。
「双蛾は、役に立ってるかい?」
老婆が穏やかに不知火を見つめた。
「役立つどころじゃねぇよ。強いのなんのって、俺でもおっかねぇ時あるぜ」
不知火が笑うと、老婆は微笑んで茶を一口すすった。
その目が、少し遠くを向いた。
「あの子は強すぎるからねぇ…揺れたとき、誰かに寄りかかるってことを、知らないんだ」
双蛾が揺れる?
揺るがないのが双蛾じゃねぇのか?
さっきは確かに、ちょっと変だったが。
「不知火さんは、強いの?」
老婆が尋ねる。
「ん?まあ…そこそこな」
「双蛾よりもかい?」
「んー…どうだろうな」
不知火は、ふと宙を見た。
鵺に乗り、刃を交えた記憶が蘇った。双蛾と戦ったのは、あの時だけだ。
あの時は、俺のほうが勝ってた気がする。
だが、老婆が言っているのは、そういう強さの話ではなさそうだ。
老婆の、皺の中の目を見る。
改めて思い浮かべる。
双蛾の笑った顔、呆れ顔、静かに怒る顔。
野盗を斬る際の、ぞっとするほど冷徹な顔。
酔って背負ってやった時の、あの無防備な寝顔。
胸の奥が、くすぐったくなる。
不知火はそれを振り払った。
「…揺れるとこなんて、想像つかねぇな」
ぽつりと呟くと、神楽は目を伏せて笑った。
「あの子は、見せないんだよ。今見せたのだって…十年ぶりだ」
「今?なんかあったのか?」
ちょっと変だったのは、そのせいか。
だが、揺れるようなことあったか?
暁の領土は拡大。仲間も増えて、燈都も順調に発展中だ。天元の懸念はあるが、一番冷静に対策を立ててるのは、双蛾じゃねぇか。
不知火は茶を一口飲み、ふと湯飲みを見つめた。
水面が揺れている。
炉の火を見る。揺れていた。
――知らねぇうちに、揺れることもあるか。
「わかった。…俺が、なるべく見とくよ」
残った茶を飲み干し、老婆に向かって軽く笑った。
老婆が微笑み返す。
一人の子供が何か呟いて、布団から転がり出た。そのまま囲炉裏の側まで転がってくる。
不知火は笑って立ち上がった。
「おいおい、すげぇ寝相だな」
子供を抱え、元の場所に戻す。
布団をかけ直してやっていると、背後から小さく、頼むよ、と聞こえた気がした。
翌朝は、からりと晴れた。
林道の入口まで、村人が見送りに出てくれる。仲間たちはそれぞれ礼を言い、和やかに話している。
双蛾と目が合った。
「オババに迷惑かけなかった?」
「かけてねぇよぉ、多分な…」
欠伸しながら答える。
伸びをして、もう一度双蛾を見た。
村人が集まるほうへ、駆けて行く。軽やかな後ろ姿。
(…いつも通り、だよな)
村人に別れを告げ、林道へ向かった。
「オババ、行って来ます」
双蛾が微笑み、老婆に告げた。不知火も軽く手を振った。
禽馬を並べ、林道を歩く。
また目が合った。
「…ま、なるべく見といてやるよ」
「?」
双蛾が不思議そうに眉をひそめた。




