第2章 第7幕 黒稜院
屋台の香ばしい匂い。遠くの音楽。簪売りに若い女たちが群がる。
だが、ここが砂上の楼閣であることを、紅蓮は知っている。
街に、男が少ない。徴兵の影響か。
角を曲がり、通りを二つ超える。
日の当たらぬあばら家の前で、子どもがうつろな目で座っている。
すぐそばの華やかな商業区と交わることは、決してない。
さらに進む。
整然とした街並み。同じ外観の家が並ぶ。
官憲の居住区。静かだ。
ここまで来ると、天元城がくっきり見通せる。
ふと、違和感を覚えた。
視線だけを動かす。
人気のない道の先に、法衣の裾が消える。
この気配――玄統か?
黒稜院の本堂。
雷霆はひとり座禅を組んでいた。
意識を空にし、心の内を見つめる。
……が、どうにも外が騒がしい。
見習い僧である沙門たちが、覚えたての神通力を披露しあって、はしゃいでいる。
力など、己を究める途上で自然と身につくもの。……何をしにここへ来た。
「おぉ、法嶽様!」
「風を呼べるようになりました!」
「私は、火を…!」
法嶽が何か言う。歓声が上がる。
やがて声が散っていく。
本堂の引き戸が静かに開いた。
閉じた目に光が差し込む。
「雷霆よ。しばらく留守を頼む」
目を開けた。
玄統に続き、法嶽もか。
お前らは一体、何をやっている。
「――どちらへ行かれるのですか」
「…北衡嶺だ」
北衡嶺――まさか、女人本山…白嶺院か。
「尼僧の力を借りる」
唖然として、言葉が出ない。
「あちらも一枚岩ではない。食いつくものもおろう」
法衣を翻し、立ち去り際に、一度振り返った。
「沙門たちの指導を頼むぞ。僧兵は多いほどよいからな」
引き戸が閉まり、闇が戻る。
――天衡道は、地に落ちた。
雷霆は目を伏せた。
天衡僧正の座は、長く空位だ。
三人の大導士が争い続けていた。
実際に対立しているのは玄統と法嶽。
愚直なほど教義に忠実な天戒は、地位に無関心だった。だがそれ故に、最も僧正に近いと目されていた。
その天戒が、三年前に死んだ。
なぜ死んだかは、誰も知らない。
ただ、その日は南衡嶺の裾野まで、季節外れの大雪に埋もれた。
雷霆が、沙門を集めて説法をする。
理ではなく術を教えてくれと、皆浮足立っている。
術を身に着け行士になったとて、雑念は増すばかり。
僧兵として、どの大導士につくのが得策か?
どちらに付いても所詮は駒だとわからぬか。
――皆、己を究めんと、ここへ来たのではなかったか。
どこでずれた。
どうやって導けばよい。
――教えてくれぬか、紅蓮よ。
天元領の片隅。
庵の前で、紅蓮は目を閉じた。
この小さな庵で閻魔と酒を酌み交わしたのは、何年前だろう。
『届くかぎり、手を伸ばし続ける』
と、閻魔は言った。
その言葉に偽りのないことを、見てきた。
街で見かけた法衣を思い出す。
玄統は何をしに来た?
――天元の力を借りにきたのだ。
外界に五十はある寺院。政治で押さえるつもりか。
天元には、何の利がある?
嶺州手前で、魔獣により進軍を阻まれたという話があった。
――僧兵の力が手に入る。
界門以南への侵攻が、容易となるだろう。
紅蓮は目を開けた。
林の向こうに、夜も眠らぬ天元の街並みがきらめく。
だが、あのきらめきなど、幻だ。
本当の力、本当に眠らぬ街を、今は知っている。
燈都―――
あの場所へ、天元の脅威が迫るのか。
「…そうはさせん」
紅蓮は呟き、立ち上がった。
登山道の入り口に立つ。
ここからは禽馬では進めない。
山頂を見上げる。雲のない空に、黒稜院の塔頭が小さく見える。
錫杖を手に、紅蓮は歩き始めた。
戻るのは、何年ぶりか。
内に籠っても、理には辿り着けぬ。そう悟り、外へ出た。
自分が異端であることは、わかっている。
だが、理を曲げ、外界に害をなすことこそ、異端ではないか。
掌を見る。
逃げ惑う群衆、焼け落ちる学び舎、灰となった街――
遠い日の記憶が蘇る。
二度と使わぬと、自ら封じた力。
しかし、いざとなれば―――
「すごい殺気がしたからどんな魔獣かと来てみれば、紅蓮のジジイか」
はっとして前を見る。
少し先の岩に腰掛け、不知火がいた。
「…こんな所で何をしておる。燈都はどうした」
「俺だって出歩くことくらいあるさ。ジジイこそ、こんな所で何してんだよ」
小枝を手に持ち、弄んでいる。
紅蓮が答えずにいると、不知火は枝先で山頂を指した。
「あそこで何かあんのか」
本山――黒稜院のことを知っているのか。
「…景仁がよくぼやいてるぜ。上でケンカされると、雪や嵐で大迷惑だって」
紅蓮は、改めて不知火を見つめた。
初対面からジジイ呼ばわりだった。
軽薄だが、鋭い。
どこか底知れないが、裏表はない。
不思議な青年だ。
「あんまり閻魔に心配かけんなよ」
不知火が、小枝を投げ捨てた。
意表を突かれる。
――閻魔に、心配?
「…心配される覚えなどない」
十年近くの付き合いだ。頼られこそすれ、心配される理由がない。
「そんな死にに行くみてぇな顔してたら、みんな心配するぜ。弁慶も、双蛾もな」
死にに行く顔。そう見えていたのか。
(わしは…)
閻魔の顔が浮かぶ。真っ直ぐな目。手を伸ばし続ける男。
弁慶の大きな背中。笑い声。
双蛾。神楽が育てた子。
困ったように笑った、あの顔。
――友の面影が重なる。
そうだ。
二度と失わないために。
彼らが脅かされることがあるならば、たとえ本山が相手でも、命をかけて戦う。
封じた筈の力も、躊躇なく使う――鬼になる。
「……心配などかけん。わしは、一人でも」
不知火を睨みつけた。
「だから、一人、とか言うなって話だよ」
「何…」
言葉が続かなかった。
「一緒に泣いたり怒ったりすればいいじゃねぇか。
困ってるなら、みんな喜んで力を貸すぜ。
…仲間だろ」
拳から、力が抜けた。いつの間に、握っていたのか。
(わしが皆を守りたいと思うように、皆もわしを守るというのか――)
理は、己の内だけでは完結しない。
外を救うことにこそ道があると、そう信じてきた。
だが―――
救われる、という道があるのか。
不知火がひょいと岩から跳び下りた。
「手始めに、俺を頼ったらどうだ。戦いに行くなら、一緒に行ってやろうか」
あっけらかんと、両腕を広げる。
紅蓮は目を伏せ、笑った。
「――いらん。戦いに行くのではない。話をしに行くだけだ」
「そうか。じゃあ帰りに燈都に寄ってけよ。酒、用意しとく」
不知火が片手を上げる。
紅蓮が歩き出す。
肩が軽くなっていた。
境内の落ち葉を掃いていると、背後に気配がした。
振り向きもせず、雷霆は言う。
「わしの幽蛉をいつも無視しおるのに、突然来るとはな」
「…近頃の沙門は、掃除もろくにせんのか」
――そうやって、またわしの言葉を無視しおって。
しかめ面のまま箒を動かしていると、突然風が吹き、落ち葉が勝手に集まった。
雷霆はようやく振り返り、紅蓮に人差し指を突きつけた。
「術は、横着するためのものではないぞ。生臭坊主め」
紅蓮は口元で笑い、境内の縁に腰掛けた。
箒を置き、雷霆も腰を下ろす。
「なぜ今帰って来た」
「…大導師は、二人とも留守か?」
――また無視か。相変わらず不作法なやつだ。
「玄統は天元、法嶽は北衡嶺だ」
「わしが出歩くのを批判していた者どもがのぅ」
「…笑い事ではない」
裾野を見下ろす。
雲海は出ていない。遠く、いくつかの村が見える。
もう何年も外界には下りていない。
内しか見つめて来なかった。
「…外を知るお前に、聞きたいことが色々あったんだがな」
雷霆は、前を見たまま呟いた。
「と言うよりもな、この腐った本山を見限って、焼き尽くしてくれてもよいと思っておった」
自嘲気味に笑う。
紅蓮がとぼけたような声で言った。
「奇遇だのぅ。わしも、そうしようと思っておった」
冗談を言うな、と睨む。
だが、その目を見て、言葉が詰まった。
――こんな、晴れやかな顔をするやつだったか。
「…何かあったのか」
「何もない。ただ、わしも救われてもよいのだと、友が言うのだ」
友――
外の友が、紅蓮の何かを変えたのだろうか。
思いを巡らす雷霆の横で、ふいに紅蓮が立ち上がった。
「帰る」
「なにっ、もう帰るのか!?」
雷霆も立ち上がりかけ、つんのめる。
草履が片方脱げ、紅蓮の足元まで転がった。
「待て!やっぱり聞きたい。教義など今誰も見ておらん。誰も導けん。紅蓮、わしはどうしたら――」
歩き出した紅蓮が、振り向いた。
「…そのままでよかろう。何もせぬのが一番だ」
草履を拾い、埃を払う。
「内なる理に向き合うおぬしを見て、皆そのうち目を覚ますだろう」
雷霆の元へ戻り、手渡す。
草履越しの、握手のようだった。
「また来る」
紅蓮が微笑んだ。
草履を握りしめたまま、雷霆が見送る。
玄統に法嶽、ままならぬ若い僧たち――
(いつの間にか、わしも外ばかり見ておったのか)
雷霆は誰にともなく頷くと、草履を履いた。
ゆっくりと、参道に背を向けた。




