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天元戦記  作者: yakiniku1010
第2章
17/23

幕間 双蛾の強さ

魔境まきょうの拠点には、酒の沸く泉のほかに、もう一つ誇れるものがある。

温泉だ。

拠点の裏の岩山を少し登った中腹に、それはあった。泉の酒の成分が混じるのだろうか、湯に浸かれば疲労が引き、冬でも体が芯から温まる。拠点では一日交替で男女の使用できる日を定め、貴重な共有財産として大切にしていた。

秋風の冷たい日だった。日が落ちかけた頃、女たちは数人で連れ立ってやって来た。浴場の手前に設けられた棚に衣類を置き、寒い寒いとはしゃぎながら岩場を回り込む。そこで全員、口をつぐんだ。

先客がいた。

双蛾そうが――不知火しらぬいが連れて来た、よそ者の女。

何やら重要な責を任されているらしく、拠点と界門かいもんを行き来している。不知火としょっちゅう一緒にいるのも、男どもがちやほやするのも、気に食わない。さらに、ちやほやされるのを意にも介さず淡々としているのも、しゃくさわった。

そう、今も――女たちの思惑など気にも留めず、にっこりと微笑みかけてくるではないか。肝が座っているのか、鈍感なのか。

女たちは不機嫌に押し黙り、少し離れて湯に入った。

しばらく誰も言葉を発さず、秋風だけが静かに流れた。チラリと彼女を見ると、岩山の上の紅葉をくつろいだ表情で見上げていた。

ふいに立ち上がる。なんという曲線美。

「お先に」

邪気のない笑顔を向けられたが、女たちは目も合わせず無視した。

双蛾が去ると、ブツブツと文句が出始めた。

そのとき。

ズシン、と地面が揺れ、湯が波立った。

湯気の向こうに何かの影――と思ったときには、女の一人が巨大な手に捕らえられていた。

悲鳴が上がる。

人の三倍はある狒々《ひひ》の巨体が、浴場の縁にしゃがんでいた。

女の体を両手で掴み、大口を開けて牙をく。

まゆ!!」

「イヤァー!食べないでぇー!」

女が泣き叫ぶ。

その瞬間。

「ギャオッ!」

サッと何かが横切ったと思うと、狒々が叫んだ。

狒々の手から女が落ちる。槍を小脇に抱えた双蛾が、抱き止めた。

「…大丈夫?」

凛々しい顔。

「は…はい…!」

離れた場所にそっと女を下ろし、槍を構えて狒々と対峙する。裸に浴衣を羽織っただけの姿だった。

狒々の肩から血が滴る。怒りの形相ぎょうそうで双蛾をにらみつけている。

女たちは恐怖に身を寄せ合った。

「ギャアァオ!」

狒々が腕を振り上げ、飛び掛かった。双蛾は素早く腹の下に滑り込むと、槍の柄でその鳩尾みぞおちを突き上げた。

倒れ込み、のたうち回る狒々。

「早く離れて!」

双蛾に言われ、女たちは泡を食って湯から這い上がる。

起き上がった狒々は後方へ跳ぶと、両のこぶしを握りしめ、ゆっくりと頭上に挙げた。拳が熱を帯び赤くなる。

「気をつけて!石つぶてが来るよ!」

慌てて衣服を身に着けながら、女の一人が大声で言った。

狒々が拳を地に打ち付けた。地鳴りがし、周囲一帯から石が浮き上がる。無数の石は上空で一度動きを止め――一斉に落ちて来た。

女たちの悲鳴がとどろく。

双蛾は真上に手刀を切った。

その瞬間、地を裂くように風が立ち上がった。

湯が飛び散る。

双蛾の浴衣が翻り、引き締まったももから腰が露わになる。

石つぶては粉々に砕け、周囲に吹き飛んだ。

女たちは呆然と辺りを見回す。

「何…今の風…」

「あれっ…双蛾は?」

いつの間にか、彼女は狒々の正面にいた。槍の切っ先を喉に突き付けている。

「言葉はわかる…?」

狒々は身動きできず固まっている。

「二度とここへは来ないで。いい?」

双蛾が槍をスッと引くと、狒々は岩山の向こうへ一目散に逃げて行った。

辺りが静まり返る。

双蛾が振り返った。夕陽を受け、その姿は神々しいほど輝いて見えた。

「…誰も、怪我はなかった?」

女たちは歓声を上げ、駆け寄った。

「怖かった〜!助けてくれてありがとう!」

「あんた、命の恩人よぉ!」

泣きながら双蛾に抱き着く。

双蛾は槍を立てかけ、微笑んで帯を締めた。

「今まで冷たくして、ごめ〜ん!」

「狒々の肉は惜しいけど、命があっただけで十分よ!」

襟元えりもとを整えながら、双蛾は怪訝けげんそうに眉をひそめた。

「肉…?あれ、食べられるの?」

女たちはきょとんとして双蛾を見つめる。

「うん…すごくおいしいのよ」

「だけど大の男でも、狩るなら十人がかりよ。罠も使って…」

「まあ不知火なら別だけど…」

双蛾は愕然とした顔で呟いた。

「知らなかった…私、勿体ないことしたのね」

次の瞬間、表情を引き締め、岩山の向こうを見据えた。

「捕まえて来る」

「えぇっ…!」

言うが早いか、槍を手に軽やかに跳躍し、岩山のてっぺんへ。

そこで一度振り返る。

魔獣まじゅうのこと、教えてくれてありがとう。気をつけて帰って」

笑顔で言うと、ひとっ飛びに岩山の向こうへ姿を消した。

呆然とたたずむ女たち。

「…嘘でしょ…めちゃめちゃカッコイイ…」

「…惚れたわ」

挿絵(By みてみん)


その夜。

狒々を軽々と担ぎ、拠点に帰った双蛾。

男たちがドン引きする中、女たちの間では『双蛾推しの会』なるものが結成された。

群がる女たちに、何事もなかったように双蛾は言った。

「汗かいたから、もう一回温泉に行って来る。ついでに、二度と魔獣が来ないように、周囲に結界を張って来るね」

爽やかに微笑むと、狒々をドスンと地面に下ろし、華麗に立ち去った。

「…ステキ…」

「双蛾様…」

うっとりと見送る女たち。

―――不知火が閻魔えんま軍に加わって間もない頃のお話。


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