幕間 双蛾の強さ
魔境の拠点には、酒の沸く泉のほかに、もう一つ誇れるものがある。
温泉だ。
拠点の裏の岩山を少し登った中腹に、それはあった。泉の酒の成分が混じるのだろうか、湯に浸かれば疲労が引き、冬でも体が芯から温まる。拠点では一日交替で男女の使用できる日を定め、貴重な共有財産として大切にしていた。
秋風の冷たい日だった。日が落ちかけた頃、女たちは数人で連れ立ってやって来た。浴場の手前に設けられた棚に衣類を置き、寒い寒いとはしゃぎながら岩場を回り込む。そこで全員、口を噤んだ。
先客がいた。
双蛾――不知火が連れて来た、よそ者の女。
何やら重要な責を任されているらしく、拠点と界門を行き来している。不知火としょっちゅう一緒にいるのも、男どもがちやほやするのも、気に食わない。さらに、ちやほやされるのを意にも介さず淡々としているのも、癪に障った。
そう、今も――女たちの思惑など気にも留めず、にっこりと微笑みかけてくるではないか。肝が座っているのか、鈍感なのか。
女たちは不機嫌に押し黙り、少し離れて湯に入った。
しばらく誰も言葉を発さず、秋風だけが静かに流れた。チラリと彼女を見ると、岩山の上の紅葉をくつろいだ表情で見上げていた。
ふいに立ち上がる。なんという曲線美。
「お先に」
邪気のない笑顔を向けられたが、女たちは目も合わせず無視した。
双蛾が去ると、ブツブツと文句が出始めた。
そのとき。
ズシン、と地面が揺れ、湯が波立った。
湯気の向こうに何かの影――と思ったときには、女の一人が巨大な手に捕らえられていた。
悲鳴が上がる。
人の三倍はある狒々《ひひ》の巨体が、浴場の縁にしゃがんでいた。
女の体を両手で掴み、大口を開けて牙を剥く。
「繭!!」
「イヤァー!食べないでぇー!」
女が泣き叫ぶ。
その瞬間。
「ギャオッ!」
サッと何かが横切ったと思うと、狒々が叫んだ。
狒々の手から女が落ちる。槍を小脇に抱えた双蛾が、抱き止めた。
「…大丈夫?」
凛々しい顔。
「は…はい…!」
離れた場所にそっと女を下ろし、槍を構えて狒々と対峙する。裸に浴衣を羽織っただけの姿だった。
狒々の肩から血が滴る。怒りの形相で双蛾を睨みつけている。
女たちは恐怖に身を寄せ合った。
「ギャアァオ!」
狒々が腕を振り上げ、飛び掛かった。双蛾は素早く腹の下に滑り込むと、槍の柄でその鳩尾を突き上げた。
倒れ込み、のたうち回る狒々。
「早く離れて!」
双蛾に言われ、女たちは泡を食って湯から這い上がる。
起き上がった狒々は後方へ跳ぶと、両の拳を握りしめ、ゆっくりと頭上に挙げた。拳が熱を帯び赤くなる。
「気をつけて!石つぶてが来るよ!」
慌てて衣服を身に着けながら、女の一人が大声で言った。
狒々が拳を地に打ち付けた。地鳴りがし、周囲一帯から石が浮き上がる。無数の石は上空で一度動きを止め――一斉に落ちて来た。
女たちの悲鳴が轟く。
双蛾は真上に手刀を切った。
その瞬間、地を裂くように風が立ち上がった。
湯が飛び散る。
双蛾の浴衣が翻り、引き締まった腿から腰が露わになる。
石つぶては粉々に砕け、周囲に吹き飛んだ。
女たちは呆然と辺りを見回す。
「何…今の風…」
「あれっ…双蛾は?」
いつの間にか、彼女は狒々の正面にいた。槍の切っ先を喉に突き付けている。
「言葉はわかる…?」
狒々は身動きできず固まっている。
「二度とここへは来ないで。いい?」
双蛾が槍をスッと引くと、狒々は岩山の向こうへ一目散に逃げて行った。
辺りが静まり返る。
双蛾が振り返った。夕陽を受け、その姿は神々しいほど輝いて見えた。
「…誰も、怪我はなかった?」
女たちは歓声を上げ、駆け寄った。
「怖かった〜!助けてくれてありがとう!」
「あんた、命の恩人よぉ!」
泣きながら双蛾に抱き着く。
双蛾は槍を立てかけ、微笑んで帯を締めた。
「今まで冷たくして、ごめ〜ん!」
「狒々の肉は惜しいけど、命があっただけで十分よ!」
襟元を整えながら、双蛾は怪訝そうに眉をひそめた。
「肉…?あれ、食べられるの?」
女たちはきょとんとして双蛾を見つめる。
「うん…すごくおいしいのよ」
「だけど大の男でも、狩るなら十人がかりよ。罠も使って…」
「まあ不知火なら別だけど…」
双蛾は愕然とした顔で呟いた。
「知らなかった…私、勿体ないことしたのね」
次の瞬間、表情を引き締め、岩山の向こうを見据えた。
「捕まえて来る」
「えぇっ…!」
言うが早いか、槍を手に軽やかに跳躍し、岩山のてっぺんへ。
そこで一度振り返る。
「魔獣のこと、教えてくれてありがとう。気をつけて帰って」
笑顔で言うと、ひとっ飛びに岩山の向こうへ姿を消した。
呆然と佇む女たち。
「…嘘でしょ…めちゃめちゃカッコイイ…」
「…惚れたわ」
その夜。
狒々を軽々と担ぎ、拠点に帰った双蛾。
男たちがドン引きする中、女たちの間では『双蛾推しの会』なるものが結成された。
群がる女たちに、何事もなかったように双蛾は言った。
「汗かいたから、もう一回温泉に行って来る。ついでに、二度と魔獣が来ないように、周囲に結界を張って来るね」
爽やかに微笑むと、狒々をドスンと地面に下ろし、華麗に立ち去った。
「…ステキ…」
「双蛾様…」
うっとりと見送る女たち。
―――不知火が閻魔軍に加わって間もない頃のお話。




