第2章 第4幕 魔獣
南方へ支配域を広げる天元。
その軍が、魔獣に阻まれたという。
軍議が一段落つくと、その話題が出た。
「蛇蝎の野郎、ざまぁ見ろだな」
弁慶が笑う。閻魔も頷く。
だが――思い浮かべる。
軍を蹴散らすほどの魔獣。
芋虫のようだと聞いたが、像を結ばない。
閻魔は魔獣を知らない。噂に尾ひれがついているのかもしれない。だが本当なら、暁の村にとっても脅威となる。
「そなたの故郷は界門に近いだろう。魔獣を見たことはあるか?」
資料を片付ける双蛾に、閻魔は尋ねた。
「…あれは、軍で対処するのは難しいよ。人の動きとは違うから、陣形を組んでも意味がないし」
「戦ったことが、あるのか?」
「あるけど…できれば会いたくない」
双蛾が眉をひそめた。珍しい。
紅蓮へ目を向ける。
「備えておくべきだろうか」
近頃は、きな臭い動きを見せる天元を警戒し、その戦略ばかり練っていた。双蛾の言葉通りなら、全く別の対策が必要になる。
「そうさのう…」
紅蓮は腕を組み、中空を見つめる。
そして、視線だけを閻魔のほうへと動かした。
「…南を、見に行けばよいではないか」
ニヤリと笑う。
「知らねば、守れぬものもある。…であろう?」
自らの口癖で返され、閻魔は苦笑しつつ、背筋を伸ばした。
双蛾を護衛につけ、南を目指す。
嶺洲という国へ向かっていた。王は人格者と聞く。あの魔獣についても、何か知れるかもしれない。
西側に連なっていた衡嶺の山並みが、ふいに途切れた。
閻魔は禽馬を止めた。
――ここが、界門。
風が乾く。
魔境へ目を凝らす。赤土の煙が舞い、遠くまでは見通せない。何かが、飛び出してきそうな気がした。
一瞬、身がすくむ。
「…大丈夫?」
双蛾が短く問う。
息を整える。
この恐怖は、知らぬからだ。知るために来た。
閻魔は頷き、前を向くと、再び歩みを進めた。
景仁は高楼から荒野を見渡していた。
天元の侵攻以来、何度も足を運んでいる。
あのとき軍が退いたのは偶然だ。いつ、再び来るかわからない。
あれから北方へ人をやり、情報を集めている。
暁の村の台頭に呼応するように、天元が南部へ領土を広げているという。
隣国・岐州が落ちたと聞いたときは、身の毛がよだった。
荒野に、二つの人影が見えた。
天元か――?
いや、過敏になりすぎだ。景仁は失笑し、部屋へ戻った。
その直後、家臣が告げた。
暁の領主が来訪した、と。
つい最近まで、天元も暁も、遠い世界のものだった。
それが、立て続けに関わることになるとは。
暁の村の領主――閻魔。
「村」とはいえ、天元が動くほどの勢力。その長であれば、大国の王に等しい。
だが、閻魔は腰が低かった。突然の来訪を、丁寧に詫びた。
「わしらは地域柄、魔獣を知らずにおりました。
此度、天元軍がそれとまみえたと聞き、手がかりを求めて参った次第」
そこまで伝わっているのか。
景仁はわずかに目を細めた。
「……震蟲、のことですな」
「ご存知か」
「知るも何も――当事者ですわい」
閻魔が目を見開き、共の女と顔を見合わせた。
震蟲という名は、景仁も後から知った。
町の前に残された巨大な死骸。どう処理してよいかわからず、学者とともに文献を漁った。古い魔境の見聞録に、その名があった。
結局、死骸は放置した。黄色い粘液が流れ尽くすと、急速に干からび、土に返った。
「あのとき、震蟲が現れなければ、この国は滅びていたでござろうな」
景仁は髭を撫でる。
「魔獣には散々困らされてきましたが、助けられたのは初めてですわい」
笑いながら、ひとつの面影が浮かぶ。
実際に救ったのは、あやつだ。本人にそのつもりはないのだろうが。
――不知火。
破天荒だが、才はある。一廉の武将になるやもしれぬ、と考えたのは、つい先日だ。天元でも通用するだろうと――ならば。
暁でも。
「いかがされた?」
問われ、我に返る。
「いや……」
あやつが望むかどうかは別として、これは好機ではないか。
「……実は、ある男のことを聞いていただきたいのだが――」
言いかけたとき。
ドン、と城が揺れた。
双蛾は窓に駆け寄った。
一拍遅れて、閻魔と景仁。
悲鳴に混じり、ギエェ!ギエェ!と禽馬のいななきが響く。
「…厩舎か?」
景仁が呟く。
再びドン、と音がして、砂煙が上がった。
「双蛾」
閻魔が低く囁いた。
双蛾は頷くと、槍を手に、ヒラリと窓から飛び降りた。
逃げ惑う人々の間を縫って、飛ぶように駆け付ける。
血の海の中に、倒れた禽馬の脚と――蛇。
鎌首をもたげる。
その胴の先に、巨大な黒い尻があった。
――この蛇は、尾か?
太い四本の脚。毛むくじゃらの躯。禿げ上がった後頭部。
ゆっくりと振り返る。目を光らせた狒々《ひひ》の顔が見えた。
食いちぎった禽馬の頭を咥えている。バキリ、と頭骨の砕ける音がした。
伝承でしか知らぬ――鵺。
厩舎の禽馬が狂乱し、ギャアギャアと騒ぐ。
双蛾は腰に携えた縄を手に取り、槍を構えた。
咥えていた頭を吐き捨て、鵺がこちらを向く。
――殺すか。捕らえるか。
―――倒せるか?
足元で、ジャリ、と砂が鳴った。
そのときだ。
「おい、そこどけー!!」
頭上から声。
血溜まりに、人が降ってきた。
血しぶきが双蛾の頬を打つ。
男は双蛾に背を向け、鵺との間に立った。
半裸の上半身。隆々とした筋肉。銀の髪。
――何者?
「界門を越えてったと思ったら、ここに来やがったか」
肩の大剣が揺れる。
……笑った?
鵺が牙を剥く。
男はふいに振り向き、双蛾の手から縄を奪った。
「借りるぜ」
次の瞬間、鵺が飛びかかる。
双蛾が槍を振り上げ、男が跳ぶ。
槍が鵺の額を裂く。
男が、その背に飛び乗った。
縄を首にかけ、引く。
一瞬、双蛾を見た。
「いい槍だな」
鵺が立ち上がる。暴れる。跳ねる。
男は縄を操り、その背に跨る。
鵺が咆哮を上げ、跳んだ。
厩舎の屋根を蹴り、城壁を駆け上がる。
そのまま――鵺も、男も、消えた。
――何が起きた?
槍を握ったまま、双蛾は空を見上げていた。
張り詰めた空気が弛緩し、音が戻って来た。
通路の奥で、別の騒ぎが起きている。
双蛾はひとつ呼吸した。
鵺の消えた空を一瞥したのち、走った。
鶏舎の戸が壊されていた。
三人の男たちが、兵をかいくぐり、袋に鶏を詰め込んでいる。
「できるだけ詰め込め!」「太ったやつがいいぞ」「詰めたら裏に回れ!」
…鵺の騒ぎに乗じた鶏泥棒か?
緊迫感の落差に、力が抜けた。
閻魔と景仁が駆けて来た。
「やべぇ!景仁だ」「逃げろ!」「待て、あと一羽…」
景仁が拳を振り上げる。
「こらぁ!お前ら、また…」
双蛾は短くため息をついた。
「…捕らえましょうか?」
「……頼む」
軽やかに双蛾が駆け出す。
閻魔がふっと笑みを漏らした。
縄をかけられた三人が、地べたに座り込む。
双蛾が袋の鶏を逃がす傍ら、景仁は小声で説教していた。
「まったく…暁の村から客人というときに…」
「…アカツキ?」
一人が聞き返した、そのとき。
空気が、重くなる。
双蛾は振り向きざまに槍を構えた。
ドスン。
目の前に、鵺。
男を乗せたまま、落ちてくる。
暴れ、もがく。だが、完全に乗りこなされている。頭を振るたび、額の傷から血が飛んだ。
「…お前ら、何つかまってんだ?」
「いやぁ、この姉ちゃんが強くてよぉ」
「情けねぇなあ」
男は笑った。
「先に帰るぜ。あとは自力で何とかしろよな」
「おい、待ってくれよ!」
縄が引かれる。鵺が反転。
跳び上がり、屋根瓦を蹴散らし――消えた。
静寂。
しばらく誰も動かなかった。
「…なぁ、オッサン」
縛られた赤髪の男が、ぽつりと呟いた。
「…アカツキって、聞いたことある。あんた、偉い人か?」
「…領主の閻魔殿だ」
怒ったように景仁が言った。
三人が顔を見合わせる。無言の相談。
やがて、赤髪が顔を上げた。
「鶏のことは悪かった。でもよ…」
声が、変わる。
「あいつを、使ってやってくれねぇか」
閻魔と双蛾が、同時に見た。
「不知火だよ。…あいつ、こんなとこに収まる奴じゃねぇんだ」
隣の長髪の男も、身を乗り出した。
「でけぇことやるやつだって、ずっと思ってた。だから、アカツキでよ…」
大柄な男が、頭を下げた。
「頼む」
景仁が、長く息を吐いた。
「……わしがちょうど、その話をしようとしておったのに」
閻魔の口元に小さく笑みが浮かぶのを見て、双蛾はスッとその場を離れた。こういうときの反応は、わかっている。
戻って来ると、予想通りの声。
「…おもしろい」
振り返る閻魔。
言われる前に双蛾は、禽馬を差し出した。
「…追うんでしょ?」
一瞬驚き、そして、笑み。
閻魔が飛び乗る。双蛾も迅に跨がる。
「景仁殿、一旦失礼する。またすぐに」
恵仁は深く頭を下げた。
荒野へ出る。
鵺の影が、界門の奥に消えて行くのが見えた。
―――来るときは怖がってたのに。
前を走る閻魔の背を見ながら、双蛾はクスッと笑った。
――今は随分と楽しそうね。
界門が近づく。
日が、ゆっくりと沈み始めていた。




