第2章 第2幕 紅蓮
丘の上で、目を閉じる。
陽光。風向き。空のにおい。
世の変化に耳を澄ます。
南衡嶺の方角に、チリチリとした乱れ。
本山である黒稜院には、もう数年戻っていない。
大導士の派閥争いが、激化している。
内を見つめ己を究める、天衡道。
その理に辿り着いたという者が、僧兵を動かし主権を争う。
――滑稽だ。
そもそも紅蓮は、外に目を向けぬ教義そのものを疑っている。
理は、己の内だけで完結するものではない。
あの本山では、辿り着けぬ。
目を開く。
紅蓮の思索に応じるように、一匹の幽蛉が、静かに視界を横切った。
周囲が色褪せ、音が遠のく。
――雷霆か?
胸の内で呼びかける。
――そうだ。久しいな。要件のみ伝える。
微かな羽音に、旧友の声が重なる。
――天戒が死んだ。これで、玄統と法嶽の争いとなる。本山は、さらに荒れるであろう。
(……愚かな)
紅蓮は、静かに息を吐いた。
通り過ぎた幽蛉が、弧を描いて戻る。
――紅蓮よ……戻る気はないか?
沈黙。
紅蓮は、ゆっくりと心を閉ざしていった。
霞が散るように、幽蛉は消えた。
視界に色が戻る。
眼下では、練兵場に人だかりができていた。
弁慶と双蛾の手合わせに、兵たちが見入っている。
暁の村に双蛾を迎えて、一年。成長は著しい。
軽やかな身のこなし。放たれる一撃は、華奢な体躯からは想像できない。今や弁慶でさえ凌ぐのがやっとだ。
呪術や幻術も、水を吸うように身につけていく。
愛想はない。だが驕らず、他者の言葉に耳を傾ける。自然と人が集まる。
弁慶も変わった。
読み書きも覚束なかった男が、大きな背を丸め、双蛾の隣で兵法書や歴史書を読む。
村は活気に満ち、飢えも貧しさもない。
閻魔の伸ばす手に、理が収束していく。
村へ戻ると、双蛾に呼び止められた。
「紅蓮、これ、ありがとう。ためになった」
本を差し出す。
「……結界術か」
「うん。村を守るために応用できそう」
双蛾は視線を故郷へ向けた。
――懸念はわかる。
魔境の盗賊は相変わらず現れる。
加えて、天元の侵攻も一度あった。
近年、暁の村の拡大に呼応するように、天元も領土を広げている。
「今ある国の中でさえ、手が届かぬと笑った者が、なぜよそに手を伸ばすのか」
閻魔は折に触れて蛇蝎を罵った。
双蛾の村への侵攻は、今回は斥候による様子見に留まった。
それでも閻魔は、警備の兵を増やしている。
天元に理はあるのか。
その問いは、長く胸で燻る。
蛇蝎の二代前。天元の学都は、諸学の徒で賑わっていた。
若き学僧だった紅蓮が、理央と出会ったのはその頃だ。
理央は、治世を学ぶ者だった。
貧しい故郷を救うため、理想郷と呼ばれる天元を見に来た。
――初めは、敵視した。
寺院の前で、大導師の説法に耳を傾ける学僧たち。その中に、剃髪もせず、妻子を伴った青年がいた。
紅蓮は見咎め、説法が終わると呼び止めた。
「天衡道の教義を知ったうえで、聞きに来たのか」
青年は悪びれもせず、うなずく。
「自己の完成を目指すんだろう?それが『理』ということだって、大導師が言ってたね」
「そうだ。それは、厳しい禁欲と修行により得られるものだ」
『お前のような俗物には無理だ』、そう言いかけた瞬間、
「うん。だから、僕には無理だってわかったよ」
青年は柔らかく笑った。
紅蓮は口を開けたまま、止まる。
「僕は弱いからさ。隣で誰かが苦しんでたら、落ち着かないんだ。とても自己の完成なんて目指せないよ」
紅蓮の目指す境地とは、真逆。
だが、妻と微笑み合うその青年は、紅蓮よりも理に近いように見えた。
それが、理央と神楽との出会いだった。
理に至る手がかりを求め、紅蓮は理央に近付いた。
ともに市井を歩き、屋台の飯を食い、酒も飲むようになった。
理央はよく喋る男だったが、酔うとますます饒舌になった。
「紅蓮と話して気付いたよ。僕が理想郷を目指すのは、人のためじゃない。自分のためだ。『みんなが幸せ』なのを見て、自分が安心したいんだ」
「ならば天元など、理想郷とはほど遠い。路地裏に広がる貧困を、お前も見ている筈だ」
紅蓮の追求に、理央はあからさまに落胆した。
「そうなんだよ…でも『みんなが不幸』よりは、ましな気もするし…」
呂律が回らなくなる。
「みんなが幸せなのが一番いいけど、それが無理なら自分の村だけでも…いや、僕の手の届くところで、大事な人たちが笑っていられるなら、それだけでいいのかも…」
「――どんどん規模が小さくなるではないか」
紅蓮が呆れる。
「神楽よ、こやつの理とは何なのだ。聞くたびに答えが異なる」
才媛と名高い神楽は、乳飲み子をあやしながら微笑んだ。
「理央が、自己の完成からほど遠いことだけは、わかるわね」
「まったくだ」
理央は困ったように笑った。
学徒弾圧が始まったのは、それから間もなくだった。
一部の学派が王の暴政を批判し、反乱を起こした。天元城に迫り、王の間の目前まで達した。
王は激昂し、学都を無差別に攻撃した。
寺院にも火の手が迫った。
僧侶たちは現実から目を逸らし、経を唱え続ける。逃げもせず、抗いもせず。
傍らで、次々に人が死ぬ。
――これが、理である筈がない。
出来ることを放棄して、何が自己の完成か。
紅蓮は、修行で身に付けた神通力により砂嵐を呼び、兵を退け、学徒たちの逃亡に手を貸した。
一人で出来ることは限られる。それでも多くを救いたかった。
そんな中――見つけてしまった。
瓦礫の陰でうずくまる神楽を。
傍らには、夫と子の亡骸―――
紅蓮の中で、感情が弾けた。
言葉にならない叫びとともに、どす黒い熱が吹き出した。
灼熱の炎が、兵団の先頭を吹き飛ばす。
後列が崩れ、兵は狂乱した。
炎に身を包み、紅蓮が進む。
轟炎が広がる。学び舎が焼け落ち、転がる遺体さえ黒く崩れていく。
一帯を焼き尽くし、怒りが虚無に落ちた頃、熱はようやく収まった。
兵はすべて退却し、辺りは灰燼となっていた。
――これは…俺がやったのか。
紅蓮は両手を見つめた。
己にこれほどの力があることを、知らなかった。
制御せねばならない。
――教義に立ち戻るしかない。
自己の完成を目指すためではない。
己を律するために。
瓦礫はすぐに片づけられた。
学都は消え、商店が立ち並んだ。
何事もなかったように、街は息を吹き返す。
――理央よ。これが、理想郷か。
皆が不幸でいるよりは、まだましか。
神楽が力なく笑った。
「私は、私の手の届く限りの人が、笑っていられる場所を目指すわ。それが、理央の目指したものだから…」
故郷へ帰る神楽の背を、紅蓮は黙って見送った。
俺は――何を目指す?
あれから幾年。天元は姿を変え続けた。
だが、そこに理があるのか――いまだわからない。
「…どうかしたの?」
双蛾が振り向く。
神楽が、どこまで話しているのかは知らない。
学を捨て、畑を耕し、親なき子を育ててきた女。
その手が育てた双蛾。
才に満ち、守るべき故郷を持つ。
――その故郷が、理央の目指した小さな理想郷か。
神楽の理が、そこにある。
「…もう、どうしたの?」
双蛾が、困ったように笑う。
見覚えのある笑み。
紅蓮は、静かに目を伏せた。




