第2章 第1幕 不知火
大陸中央を南北に縦断する険しい山脈、衡嶺。
その東は文明の地「人界」、西は「魔境」と呼ばれる無法地帯。ならず者の集落が点在し、魔獣が跋扈する。
その荒野を、禽馬が四頭、土埃を上げて疾走していた。
「そっちに行ったぞ、不知火!」
一人の青年が叫ぶ。
不知火は前を見据えたまま応じた。
「大岩で左に追い込む!袋小路で仕留めるぞ!」
おう、よしきた、了解!とバラバラに声が返る。
禽馬の集団のはるか前方を、六本脚の異形の獣が疾駆する。
純白の毛並みに黒の縦縞。鋭い牙を剥き、矢を受けてなお速度を落とさない。魔境の住人が白虎と呼び恐れる獣だ。
「大岩に向かって打ち込め!右に回らせるな!」
不知火の合図で矢が放たれる。矢は白虎の右側を掠めて大岩に突き立ち、岩肌を砕いた。
不知火は速度を上げ、先頭へ飛び出した。単独で追う。銀髪がなびく。
左右の岩壁が迫る。
突き当たり直前、白虎が跳ぶ。断崖を蹴り、反転。
不知火へ飛びかかった。禽馬がいななき、立ちすくむ。
不知火は飛び降りざま、右手を突き出した。
青い炎が弾ける。
「ギャオォォオ!」
目を焼かれた白虎が、闇雲に突進して来る。
不知火は身を低くし、六本脚の間を駆け抜けた。
そのまま背へ飛び乗る。たてがみを掴み、引く。
白虎が咆哮し、立ち上がった。
その腹に、仲間の矢が突き刺さる。
「決まりだ」
不知火は笑い、右手の大剣を振り下ろした。
鈍い音。
白虎の首が落ちた。
仕留めた獲物を引きずり、拠点へ戻ると、歓声が沸いた。
「解体するぞぉ!手伝ってくれ!」
焔が呼びかける。久々の大物に、すぐ人が集まる。
不知火は湧き水のそばの盃を一つ取り、水を汲んで飲んだ。
この湧き水は、酒だ。
二年前に見つけた。
手負いの獣が妙に集まる谷に気付き、仲間と向かった。
湧き水が泉を作り、獣が無防備に眠っていた。
舐めてみる。酒だった。
獣は酔いで痛みを紛らわせていたのだ。
大はしゃぎで飲んでいると、ふいに影が落ちた。
獣が飛び起きて逃げる。
振り返ると、白い大蛇が見下ろしていた。
俊敏な動きで焔を捕らえ、とぐろで締め上げる。悲鳴が上がる。斬り掛かった銀狐と黒鉄を、尾が吹き飛ばした。
大蛇が口を開く。
不知火は大剣を薙いだ。牙が折れ、弾け飛ぶ。
ひるんだ隙に、その胴を一刀両断にした。
こうして、酒の泉を手に入れた。
大蛇は酒と塩で煮て食った。驚くほどうまかった。
以来、ここを拠点にしている。
仲間も増え、今では魔境でも名が通る。
女が一人、白虎の毛皮を焔からかすめ取り、駆け寄った。
「ねぇ不知火。あたし、これであんたに腰巻を縫ったげる」
「ほんとか。そりゃ、ありがとよ」
盃を投げ捨て歩き出す不知火に、女がしなだれかかる。
「ねぇ、だから今度あたしを抱いとくれよ」
ヒュゥ、と口笛が鳴る。不知火は笑った。
「まあ気が向いたらな」
黒鉄の声が響いた。
「肉が焼けたぞー!」
待ってました!と人が群がり、不知火もかぶりついた。
今日、白虎を狙ったのには理由がある。
界門へ向かうのが見えたからだ。
衡嶺山脈が南北の中央で途切れる平地――界門。
魔境と人界の接続部だ。
その先に、別の世界がある。
農耕が行われ、通貨が巡り、人は平和に暮らしている。魔境の混沌が流れ込めば、町や村はひとたまりもない。
守ってやっているつもりはない。だが、人界が蹂躙されるのは気が晴れない。
だから、界門を越えようとする野盗や魔獣は、狩る。
興味本位で、人界を見に行くこともある。
界門のすぐ南、小国・嶺州。
不知火はこの国を気に入っていた。
かつて、野盗の一団が界門を越えるのを見て、不知火は一人追った。その先が、この国だった。
突如現れた賊に、町人が逃げ惑う。
憲兵団が駆けつけたのは、賊を全て斬り捨てた後だった。
不知火に向け、弓が引かれる。
(……これ、俺も盗賊扱いか?)
大剣の血を払い、肩に担ぐ。
さて、どうしたもんか。
そのとき――
「待て!」
声が響き、憲兵団の列が割れた。
立派な服の男が、歩み出た。
周囲の有様に目を走らせ、不知火に向き直る。
「…町を守ってくれたのか」
不知火は口元だけで笑った。
「…別に」
男が頷く。
「わしは、ここ嶺州の王・景仁。礼をしたい。城へ来てくれ」
不知火は周囲を見回した。
町人は怯えた顔で遠巻きに見ている。憲兵はまだ矢をつがえていた。
この王以外に、歓迎されてはいない。
魔境から流れ込むものは全て、ここでは異物だ。
「じゃあ、そのうちまた来る。いい酒でも用意しといてくれよ」
不知火は片手を上げ、踵を返した。
穏やかな秋の日差しの庭を眺めながら、景仁の心は重かった。
内廷での報告は、頭の痛いものばかりだった。
市の利権争い、小役人の年貢横領。南衡嶺では天衡道高僧の派閥争い。山頂の黒稜院で争乱が起きるたびに、嵐や大雪が麓まで届く。作物に影響が出ていた。
野盗の被害は絶えず、先月は大猪に城壁を壊された。修繕も急がねばならない。
―――界門のそばで暮らす宿命か。
天元の噂を思い浮かべる。大陸最大の理想郷。北東では暁という新勢力も、台頭しているらしい。
「――別天地の話だな」
景仁は呟き、書斎へ向かった。
扉を開け、足を止める。
閉めたはずの窓が開いている。
窓枠に胡坐をかいて、不知火が書物を読んでいた。
「…頼むから、そこから入るのはやめてくれ。心臓に悪い」
「正面から来ると、怖がる奴らがいるんだよ」
それはもっともだが、ここは四階だ。
景仁はため息をついた。
「また勝手にわしの本を読んでおったのか」
「いいじゃねぇか、減るもんじゃねぇし。……なあ、この献地法ってなんだ?」
景仁は歩み寄り、頁を覗く。
「ああ、新しく開いた農地は、二十年後に領主へ寄進せよという法だ」
「へぇ。それじゃ農地は増えねぇな。不満が溜まる」
「そうだな。その国は、農民の反乱で滅びたそうだ」
「だろうな」
不知火は笑い、頁をめくる。
理解が早い。
剣の腕だけでなく、仲間の信も厚く、知への欲も強い。
どこかで登用されれば、一廉の武将になるだろう。
天元のような大国でも。
「……不知火よ。人界で暮らす気はないか」
「ねぇよ」
即答だった。
「堅苦しいのは嫌いだし、俺がいないと仲間が寂しがるしな」
「仲間――焔達か。…そう言えばあやつら、大猪退治の際、どさくさに紛れて鶏舎の鶏を盗んで行きおったな」
「いいじゃねぇか、減るもんじゃねぇし」
「…いや、鶏は減るだろう」
不知火は屈託なく笑った。
天元。
理想郷として、ぼんやりと思い描いていただけだった。
まさか、その天元から侵攻を受けるとは。
敵が来た、と聞いたとき、また魔境の荒くれどもか、と景仁は思った。
取り急ぎ憲兵団を向かわせる。
町の様子を確かめるため、楼閣に上った。
まず町を見下ろす。目立つ被害は、まだない。
ついで荒野へ目を向けたとき――
(なんだ、あれは…)
はじめ、黒い液体が砂地を流れて来るように見えた。
――違う。軍だ。
千……いや、二千か。
紫と金の旗印。
――天元?
近づいてくる。
なぜだ。
この辺境の小国が、はるか北方の天元に狙われる理由が、わからない。
だが、わからぬからと、動かぬわけにはいかない。
景仁は軍を整えるため、階下へ急いだ。
町人を城壁内に入れる。
ざわめきはあるが、どこか静かだった。誰も大声を上げず、泣く子もいない。
魔境の脅威には慣れている。だが、他国の大軍に襲われるのは初めてだ。父王の時代にも――なかった筈だ。
急ぎ集めた兵は、二百にも満たない。
職業兵はわずかで、多くは商や工に従事する兼業兵だ。定期的に訓練は積んできたが、初陣の相手が天元とは、誰も想像していなかった。
景仁は本隊の後方で禽馬に乗り、荒野を見据えた。
遠く液体のようだった敵軍が、輪郭を持つ。
黒光りする甲冑。
乱れぬ足並み。
紫の旗に、金の蛇。
――何人、失う。
重い緊張が胸を埋める。
勝てる見込みはない。
撃退できれば、まだましだ。このまま占領される可能性もある。
自分の命も――ないだろう。
敵将の手が、ゆっくりと上がる。
瞬間。
軍が押し寄せた。
怒号はない。足音だけ。異様なほど静かな侵攻だった。
そのとき。
「どけー!危ねぇぞぉーー!」
聞き慣れた声。
同時に、足元が揺れる。
地震か――
次の瞬間、突き上げる衝撃。
最前列の目の前で地が裂け、巨大な何かが飛び出した。
砂塵に視界が閉ざされる。
それは空中で一度うねり、両軍の間に落ちた。
地響き。
――なんだ?
山が降ってきたかと思った。いや――蟲か。
芋虫のような形。赤黒い殻が鈍く光る。
どちらが頭だ。いや――どちらもか。
両端に、無数の牙が蠢く。
その片側に、樹木のようなものを咥えていた。
蟲に遮られ、敵の姿が消える。
次の瞬間、上空に光。
太陽が、大剣に反射した。
不知火が、落ちてくる。
隕石のように。
大剣が甲殻の隙間に突き立つ。
黄色い粘液が噴き出した。
降り注ぐ。熱い。
「お前ら、危ねぇから下がってろ!」
どちらに向けた言葉か。とにかく、下がるしかない。
蟲が身をくねらせる。地鳴り。
「潜らせねぇよ!」
青い炎が、地に叩き込まれた。
弾かれたように蟲が身を起こす。
左方から、無数の矢。
多くは弾かれ、一部が甲殻を割る。
粘液が飛び散る。
禽馬が数頭、駆けてくる。
さらに矢が放たれる。
不知火が身を翻す。
跳び上がりざま、大剣を振り抜いた。
矢が穿った点を繋ぐように、裂け目が走る。
巨体が、ゆっくりと二つに割れていく。
蒸気が噴き出す。
蟲は、二つの塊となって落ちた。
地面が鈍く揺れる。
一度、痙攣するようによじれ――動かなくなった。
「俺の獲物だ。返してもらうぜ」
不知火が、口から“それ”を引き抜く。
樹木――ではなかった。
大きな鹿の、枝分かれした角だった。
仲間が駆け寄る。
「わりと手こずったな」
焔が、空の禽馬を差し出す。鹿を担いだまま、不知火が跨った。
「まあ、悪くはねぇだろ」
立ち去り際、ふと目が合う。
今気づいたように、手を振って寄越す。
「よぅ、景仁。そんなとこで何してる?火傷しなかったか?」
言葉が出ない。
笑いながら、不知火は遠ざかっていく。
残された蟲の体から、まだ湯気が立つ。
その向こうにいたはずの大軍は、消えていた。
想定外の脅威に、退いたのだろう。
――助かった…のか?
景仁は、砂煙の向こうを、しばらく見つめていた。




