第1章 第10幕 双蛾
「…と、まあ、こんなところだ」
閻魔と名乗った男は、軽やかな笑みを浮かべた。
長く重い話の後とは思えぬ顔だった。
双蛾は言葉を失う。
――器が違う。
そんな言葉で片付けていいのか、わからなかった。
唇を噛む。
(…知らなかった)
飢饉の凄惨さも、他の土地で生きる人々のことも。
守るために戦ってきた者が、自分だけではないことすら――考えたことがなかった。
(……私は、何も知らない)
閻魔は、穏やかな目で双蛾を見つめている。
底知れない瞳。
最初は警戒した。
だが今はわかる。恐ろしいのではない。覚悟を湛え、深いのだ。
「すぐに事を起こすわけではない。
だが、いずれ天元との対決の日は来るだろう。
力を、貸してほしい」
閻魔は、静かに言った。
(力を貸す……?)
双蛾は、わずかに眉を寄せた。
自分は、知らない。
だが――
このままで、守れるのか?
ふいに、その考えが浮かんだ。
天元―――
その国が、この先も村の脅威にならないと、なぜ言い切れる。
閻魔の語った言葉が、耳の中でこだました。
『知らねば、守れぬものもある』
(…知りたい)
双蛾は、ゆっくりと顔を上げた。
目が合う。閻魔は頷いた。
隣で黙っていた弁慶が、ふいに、思い出したように口を開いた。
「そうそう、双蛾殿が不在の間は、ウチの兵士を派遣して、村の防衛に当たらせるからよ。心配すんな」
先刻、双蛾の槍を受け止めた大男。
あのときは鬼気迫る迫力だったが、こうして笑うと少年のような目になる。
弁慶の言葉に続けるように、閻魔が静かに言った。
「今、こちらには、単独で一隊に匹敵する力が二つある」
弁慶と、丘の方角を、わずかに示す。
「あと一つ……いや、二つあれば、届く範囲はさらに広がる」
閻魔は、もう一度しっかりと双蛾を見つめた。
「返事は急がん。もし、ともに来てくれるなら、三日後の朝、村の入口まで来てほしい。迎えに来る」
そして、神楽のほうへ向き直る。
「――それで、よろしいだろうか」
神楽は、普段通りの笑顔で、双蛾のほうを見た。
「双蛾が、決めた通りにすればいい。私は、ずぅっと、そう言って来たよ」
「オババ…」
閻魔と弁慶はスッと立ち上がると、短い挨拶を残し、辞去した。
双蛾の胸に、静かな熱が灯った。
三日の間、双蛾は答えを口にしなかった。
決意は、静かに固まっていった。
朝が来る。
目を覚まし、髪を結び、槍を手に取って外に出る。
―――今日も、いつも通りの村。
双蛾は顔を洗うと、家の裏手へと回った。
一頭の禽馬が顔を上げ、クエッと鳴いた。
「おはよう、迅」
その嘴に頬を寄せ、首元を撫でる。
かつて野盗から奪い取った禽馬だ。
荒くれだったが、時間をかけて手懐けた。今では、かけがえのない相棒だ。
馬具を取り付け、昨夜まとめた小さな荷物を鞍に下げた。
手綱を引いて家の前に回ると、神楽が立っていた。
何も聞かない。
いつもと変わらぬ、穏やかな顔。
「オババ…行って来ます」
静かに告げると、神楽は頷いて、歩み寄った。そっと手を伸ばし、双蛾の頬に触れる。
「お前が何を背負い、どう生きて来たか、私が全部知ってる。何にも捕らわれず、自由に生きていいんだ」
「オババ…」
ふいに目の奥が熱くなった。が、顎をひき、グッとこらえる。
村を守ると決めた日から、涙は流さぬと誓っている。
――知らなければ、守れない。だから行くのだ。
知って、強くなって――戻る。
双蛾は、頬に置かれた神楽の温かい手を取ると、両手で包み込み、頷いた。
まだ静けさの残る村を起こさぬよう、迅を引いて静かに林道へ向かう。
背後から小さな足音が駆け寄り、少し離れた場所で止まった。
振り返る。
星占が、立っていた。泣き出しそうな顔。
ゆっくりと双蛾に歩み寄ると、ギュッと抱き着いた。
「星占…」
どこか孤立した少女。残して行くのは気がかりだった。
しばらくその頭を黙って撫でてやった。やがて星占が静かに体を離す。
双蛾は腰を落とし、視線を合わせた。
「…ちゃんと帰って来るよ」
微笑むと、星占は一瞬双蛾の瞳のさらに奥を見るような目をしたのち、頷いた。
「うん…知ってる」
顔を上げ、溢れかけた涙を両手でゴシゴシとぬぐうと、にっこり笑って言った。
「双蛾は、何があっても大丈夫って、知ってる」
双蛾は意表を突かれた。
励ましてくれているのか。
強くなろうとしているのは、きっと、自分だけではないのだ。
「……ありがとう」
双蛾は、星占を見つめ、静かに微笑みを返した。
薄暗い林道の先に、朝日が差す。
禽馬にまたがる二つの影が、浮かび上がった。
林道を出る。
「…来てくれたか、双蛾殿」
閻魔の顔は、気負いなく、打ち解けていた。
「双蛾、でいいですよ」
迅の背に軽やかに跨り、双蛾は笑みを返した。
「じゃあ、双蛾も敬語いらないぜ」
弁慶がニカッと笑った。
閻魔が頷く。
「では、行くか」
二人のあとに続き、数歩。
双蛾は、ふと迅を止めた。
林道を振り返る。
この場所を離れても、守るものは変わらない。
知ろう。
強くなろう。
(―――待ってて)
双蛾は静かに息を吸い、前を向いた。




