第6話:失墜する王子
第一王子アルベルトは、焦っていた。
いや。
正確には――追い詰められていた。
⸻
「……なんだ、これは」
王太子執務室。
朝一番に入室したアルベルトは、机の上を見て絶句した。
書類。
書類。
書類。
山のように積み上がっている。
予算案。
外交文書。
地方領主からの陳情書。
騎士団補給申請。
税制改定の確認書類。
今まで見たこともない量だった。
「なぜこんなにある!?」
怒鳴る声に、控えていた官僚たちが顔を引き攣らせる。
「……以前から、この量はございました」
「馬鹿な!」
「リリアーナ様が整理されていただけです」
その瞬間。
空気が凍った。
アルベルトの眉がぴくりと動く。
「……どういう意味だ」
官僚は一瞬ためらった。
だが、もう隠しきれない。
「リリアーナ様は、殿下が確認しやすいよう案件を分類し、優先順位を整理し、必要事項を事前にまとめてくださっていました」
「……」
「重要箇所には付箋まで」
「……」
「殿下は、最後の承認だけをなさっていたのです」
沈黙。
アルベルトは何も言えなかった。
いや。
言えなかったというより。
理解が追いつかなかった。
そんなこと、考えたこともなかったから。
⸻
これまでは、全てが“自然”だった。
書類はわかりやすく整理されていた。
外交問題は気づけば片付いていた。
地方貴族との関係も良好だった。
だからアルベルトは、それが当然だと思っていた。
自分が優秀だからだと。
王太子である自分を、皆が支えるのは当たり前だと。
けれど。
違った。
全部。
全部。
リリアーナが整えていたのだ。
⸻
「殿下! 西部領から抗議文です!」
「は?」
「先日の税率変更案について、“事前説明がない”と……!」
「そんなもの、適当に返しておけ!」
「適当に返した結果がこちらです!」
ばん、と机へ叩きつけられる書類。
そこには大量の訂正文と抗議文。
さらに。
「東方連合から外交会談延期の要請が!」
「なぜだ!」
「送付した文書の格式が、相手国への侮辱に当たるそうです!」
「……は?」
アルベルトは固まった。
格式?
敬称?
そんな細かいことまで気にしていたのか?
だが官僚たちは疲弊した顔で言う。
「以前はリリアーナ様が、すべて確認してくださっていました」
まただ。
また、リリアーナ。
何を聞いても、彼女の名前が出てくる。
アルベルトは苛立った。
「お前たちは無能か!? 一人いなくなった程度で何を騒いでいる!」
怒号が響く。
しかし。
官僚たちはもう耐えきれなかった。
「一人ではありません!」
若い官僚が声を荒げる。
「リリアーナ様は、十人分以上働いておられました!」
静まり返る執務室。
アルベルトが目を見開く。
その官僚は、はっとして青ざめた。
本来なら王族へこんな口を利いていいはずがない。
だが。
もう皆、限界だった。
「……失礼、いたしました」
深く頭を下げる。
けれど、その場にいる誰も彼を責めなかった。
なぜなら。
全員、同じことを思っていたからだ。
⸻
数日後。
王宮内で、さらに問題が起きる。
「北部との交易が停止しました!」
「なに!?」
アルベルトが立ち上がる。
北部交易は王国の重要な収入源だ。
止まれば経済に大打撃が出る。
「理由は!」
「北部領主が、“リリアーナ嬢以外とは交渉しない”と……」
空気が凍った。
「……ふざけるな」
アルベルトの顔が引き攣る。
「私は王太子だぞ!?」
「ですが先方は、“殿下の署名した契約書は信用できない”と……」
どくん、と心臓が嫌な音を立てた。
信用できない。
その言葉が妙に重く響く。
「なぜだ……」
ぽつりと零れる。
すると年配の官僚が、苦しそうに口を開いた。
「以前、契約内容の誤認がございました」
「……」
「本来なら莫大な損失になる案件でしたが、リリアーナ様が事前に修正してくださったのです」
「…………」
「殿下は、ご存知ありませんでしたか」
知らなかった。
本当に。
何も。
⸻
夜。
アルベルトは一人、執務室に残っていた。
薄暗い部屋。
積み上がる書類。
静寂。
疲労で頭が痛い。
机には冷めきった紅茶。
その時、不意に気づく。
――いつもは、温かかった。
リリアーナがいた頃は。
気づけば新しい紅茶が用意され。
必要な資料が整理され。
次の予定まで頭に入っていた。
『殿下、本日の会談資料です』
『殿下、お疲れでしょう。少し休憩を』
『こちら、先に確認しておきました』
脳裏に浮かぶのは、いつも冷静な婚約者の姿。
完璧で。
厳しくて。
口うるさくて。
でも。
いつも、自分の隣にいた。
「……」
アルベルトはゆっくり顔を覆った。
胸の奥がざわつく。
違和感。
焦燥。
そして。
得体の知れない空虚感。
⸻
翌日。
宰相が執務室へ呼ばれた。
「リリアーナを戻せ!」
アルベルトは怒鳴った。
「今すぐだ!」
宰相は静かに彼を見る。
その目にあるのは、失望だった。
「殿下」
「婚約を戻せばいい! あいつも王妃になりたかったはずだ!」
宰相は深く息を吐く。
そして。
冷たく言った。
「“戻ってきていただく”側でしょう」
アルベルトが凍りつく。
「……何?」
「リリアーナ様は、殿下に仕えるための道具ではありません」
淡々とした声。
「これまで殿下を支えてくださっていたのは、義務感と誠意によるものです」
「私は王太子だぞ!」
「だからこそ問題なのです」
宰相の目が鋭くなる。
「殿下は、“支えられて当然”と思っておられた」
「っ……」
「誰が、どれだけ、何を背負っていたのかを見ようともしなかった」
一言一言が突き刺さる。
アルベルトは反論できない。
できるはずがなかった。
全部、事実だったから。
⸻
「……違う」
かすれた声が漏れる。
「私は……」
愛されていたのだと思っていた。
王太子だから。
婚約者だから。
当然、自分を支えてくれるのだと。
でも違った。
リリアーナは。
ただ“義務”で動いていたわけではない。
彼女なりに誠実に、自分を支えようとしてくれていたのだ。
それを。
自分は。
当たり前だと思っていた。
「……私は……」
そこでようやく。
アルベルトは理解する。
自分は愛されていたのではない。
支えられていたのだと。
そして。
その支えを、自分の手で壊したのだと。




