第5話:崩れる偽り
雨が降っていた。
灰色の空から落ちる雨粒が、王城の窓を静かに叩いている。
まるで今の空気そのものだった。
重く。
冷たく。
逃げ場がない。
⸻
「違うの……!」
セシリア・ノールは、震える声で叫んだ。
「わたし、そんなつもりじゃ……!」
王宮の小会議室。
卒業舞踏会での騒動を受け、正式な事情聴取が行われていた。
室内には重苦しい沈黙が満ちている。
宰相。
王宮官僚。
数名の上級貴族。
そして。
窓際に静かに立つレオンハルトと、向かい側へ座るリリアーナ。
誰も口を挟まない。
ただ、真実が暴かれていくのを見ていた。
セシリアの前には、証拠書類が積まれている。
偽証。
虚偽申告。
故意の誤解誘導。
リリアーナへの名誉毀損。
もう、言い逃れはできなかった。
「違うんです……!」
セシリアは涙を流しながら首を振る。
「わたし、本当に怖くて……!」
その姿は痛々しかった。
数日前まで“可憐な平民の少女”として守られていた面影はない。
ただ、追い詰められた少女がそこにいた。
「……怖かった?」
静かな声。
リリアーナだった。
責めるような口調ではない。
むしろ穏やかですらある。
それが逆に、セシリアの心を抉った。
「はい……!」
彼女は泣きながら言葉を吐き出す。
「だって、わたし……平民だから……!」
握り締めた手が震える。
「みんな、優雅で、綺麗で、完璧で……!」
ぽろぽろと涙が零れる。
「食事の作法も、言葉遣いも、ダンスも……何もできなくて……!」
それは、きっと本音だった。
学院へ入学した日から。
セシリアはずっと浮いていた。
平民出身の特待生。
珍しい存在。
だからこそ注目され、噂され、陰口も叩かれた。
『場違いでは?』
『王立学院なのに』
『平民の匂いがする』
直接言われたわけではない。
けれど視線でわかった。
自分は異物なのだと。
「……そんな時、アルベルト殿下だけが優しくしてくれたんです」
セシリアは嗚咽混じりに呟く。
「初めてだったんです……ちゃんと“女の子”として扱われたの……」
リリアーナは黙って聞いていた。
「殿下が笑いかけてくれて……褒めてくれて……隣にいてくれて……」
セシリアの瞳から涙が溢れる。
「嬉しかったの……!」
その叫びは、痛いほど切実だった。
愛されたかった。
認められたかった。
居場所が欲しかった。
ただ、それだけだったのだろう。
けれど。
「でも……」
セシリアは震える声で続ける。
「みんな、リリアーナ様ばっかり見てた」
空気が静まる。
「誰もが、未来の王妃はリリアーナ様だって言ってて……!」
涙で濡れた顔が歪む。
「殿下も、結局はリリアーナ様を頼ってて……!」
その瞬間。
リリアーナは初めて理解した。
この少女は、自分へ憧れていたのだ。
そして同時に。
恐れていた。
完璧すぎる存在を前にして、自分の価値が消えてしまう気がしたのだろう。
「だから……だからわたし……!」
セシリアは泣き崩れる。
「リリアーナ様が怖かった……!」
静寂。
誰も言葉を発しない。
その告白は、あまりにも幼く、弱かった。
レオンハルトだけが冷えた目をしていた。
彼にとって事情など関係ない。
罪は罪だ。
理由があっても、やったことは消えない。
だが。
リリアーナは違った。
彼女は静かにセシリアを見つめていた。
長い沈黙のあと。
ゆっくりと口を開く。
「……わたくしを、憎んでいましたの?」
セシリアがびくりと震える。
「ち、違……!」
「正直に答えなさい」
穏やかな声だった。
怒鳴りもしない。
けれど逃がさない。
セシリアは唇を噛み締めた。
そして。
「……羨ましかった」
ぽつり、と零す。
「全部、持ってるから……」
リリアーナは目を伏せた。
全部。
本当にそうだろうか。
確かに彼女は公爵令嬢だ。
教育も受けた。
地位もある。
だが。
その裏でどれだけ努力してきたかを、セシリアは知らない。
眠れない夜。
失敗できない重圧。
未来の王妃として背負わされ続けた責任。
誰にも弱音を吐けず、“完璧”であることを求められ続けた日々。
それでも。
セシリアには、それが“恵まれている”ように見えたのだろう。
「……そう」
リリアーナは静かに呟く。
怒りは、不思議となかった。
ただ少しだけ、悲しかった。
もっと早く。
ちゃんと話せていたなら。
違う未来もあったのかもしれない。
けれど、もう遅い。
壊れてしまったものは戻らない。
セシリアは嗚咽を漏らしながら、床へ額を擦り付けた。
「ごめんなさい……!」
震える声。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
その姿に、部屋の空気が重くなる。
「許して、ください……!」
縋るような声だった。
リリアーナはしばらく黙っていた。
やがて。
静かに口を開く。
「セシリアさん」
「っ……!」
「謝罪とは、“許されるため”にするものではありませんわ」
セシリアが息を呑む。
リリアーナの声は厳しかった。
けれど同時に、どこか優しかった。
「自分の罪と向き合うために、するものです」
涙が止まる。
「許されたいから謝るのではないの」
リリアーナは真っ直ぐ彼女を見る。
「自分が誰かを傷つけたことを、認めるために謝るのです」
セシリアの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「わたし……」
「あなたは、わたくしを傷つけました」
静かな断言。
「殿下を利用し、多くの人を巻き込み、嘘を重ねた」
逃げ道は与えない。
だが。
リリアーナは続ける。
「それでも」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「今ここで、自分の罪から逃げなかったことだけは、立派ですわ」
セシリアが目を見開く。
責められると思っていた。
軽蔑されると思っていた。
なのに。
この人は最後まで、自分を“見下さなかった”。
その事実が、余計に胸を締め付ける。
「……っ、う……」
セシリアは声を殺して泣いた。
もう言い訳はしない。
自分がしたことを、ようやく理解したから。
その様子を見ながら。
レオンハルトは静かにリリアーナを見つめていた。
普通なら切り捨てる。
罪を裁いて終わりだ。
だが彼女は違う。
厳しい。
けれど。
最後の最後で、人を見捨てきれない。
(……甘いな)
心の中で呟く。
だが同時に。
そんなところに、どうしようもなく惹かれている自分を理解していた。




