第4話:第二王子の執着
第二王子レオンハルトは、恐れられている男だった。
冷酷。
非情。
容赦がない。
戦場では“氷血公子”と呼ばれ、敵軍からすら名を恐れられる存在。
必要なら切り捨てる。
不要なら視界にも入れない。
そんな男だと、誰もが言う。
実際、その評価は間違っていない。
彼は無駄を嫌う。
感情論を嫌う。
媚びも社交辞令も好まない。
だから貴族令嬢たちは皆、彼へ憧れながらも近寄れなかった。
笑わない男。
冷たい男。
血の通わない王子。
それがレオンハルトだった。
――けれど。
リリアーナ・エヴァンジェリンだけは知っていた。
この男は、“見ている”。
誰も気づかないものを。
誰も評価しない努力を。
ちゃんと見ている人なのだと。
⸻
婚約破棄騒動から数日後。
リリアーナは公爵邸の庭園で紅茶を飲んでいた。
午後の柔らかな陽射し。
風に揺れる白薔薇。
静かな時間。
こんな穏やかな昼下がりは、何年ぶりだろう。
これまでは常に書類に追われていた。
朝から晩まで王宮と領地の仕事。
アルベルトの失敗の補填。
外交調整。
予算管理。
貴族間交渉。
誰より働いていたのに、“当然”だと思われていた。
だが今は違う。
王宮からの書類は来ない。
誰も無茶を押し付けてこない。
信じられないほど静かだった。
――その静けさに。
ほんの少しだけ、寂しさを覚えてしまう自分がいた。
「……重症ですわね」
リリアーナは苦笑する。
あれほど忙殺されていたのに。
急に暇になると落ち着かない。
その時。
「失礼する」
低い声が響いた。
振り返るまでもない。
この声を聞き間違えるはずがなかった。
「レオンハルト殿下」
黒髪の青年が庭園へ足を踏み入れる。
今日も軍服姿だった。
陽光を受ける金の瞳は鋭く、相変わらず威圧感がある。
普通の令嬢なら視線を合わせるだけで萎縮するだろう。
けれどリリアーナは、自然に微笑んだ。
「お茶をお飲みになります?」
「ああ」
短い返事。
だが彼は当然のようにリリアーナの向かいへ腰を下ろした。
侍女のマリアが慌てて追加の紅茶を用意する。
その間、沈黙が落ちた。
だが不思議と気まずくない。
レオンハルトは元々、無理に会話をする男ではない。
必要なことだけ話す。
それなのに。
リリアーナは彼との沈黙を、不快だと思ったことがなかった。
むしろ心地いい。
変に気を遣わなくていいからだ。
やがて紅茶が置かれる。
レオンハルトは一口飲み、僅かに目を細めた。
「……美味いな」
「エヴァンジェリン領の茶葉ですの」
「覚えておこう」
さらりと言う。
たぶん本人は無意識だ。
だが。
その何気ない言葉のひとつひとつが妙に丁寧で、リリアーナは少しだけ戸惑う。
アルベルトは、一度だって彼女の好みを覚えようとしなかったから。
紅茶も。
花も。
好きな菓子も。
何も。
比較してしまった自分に、リリアーナは小さく眉を寄せた。
もう終わったことだ。
考える必要などない。
だがレオンハルトは、不意に口を開いた。
「兄上は愚かだ」
唐突な言葉だった。
リリアーナは瞬きをする。
「君を手放した」
淡々と。
けれど断定するように、彼は言った。
リリアーナは苦笑する。
「買い被りですわ」
「いや」
即答だった。
迷いがない。
「君が去ってから、王宮は回っていない」
その一言に、リリアーナは少しだけ視線を逸らした。
最近、噂は耳に入っている。
予算管理の混乱。
外交問題。
山積みの未処理案件。
官僚たちの悲鳴。
アルベルトの癇癪。
正直、予想通りだった。
だが。
「わたくし一人いなくなった程度で、そこまで変わるものではありませんわ」
「変わる」
レオンハルトは静かに言い切る。
「君は、自分を過小評価しすぎだ」
「……」
「俺は前から気づいていた」
その言葉に、リリアーナは初めて少し驚いた。
「気づいて、いた?」
「ああ」
レオンハルトは紅茶を置く。
金色の瞳が真っ直ぐ彼女を見た。
「兄上の執務室へ行くたび、机の上は整理されていた」
「……」
「外交問題も、気づけば解決していた」
「……」
「北部の領主たちは兄上ではなく、君を信用していた」
淡々と並べられる事実。
リリアーナは何も言えない。
誰も見ていないと思っていた。
気づかれていないと思っていた。
なのに。
この人だけは。
ずっと見ていた。
「君は、優秀すぎた」
静かな声だった。
「だから誰も、“君が支えている”と気づかなかった」
リリアーナの胸が、少しだけ痛む。
その通りだったから。
彼女が完璧に処理してしまうせいで、誰も問題に気づかない。
問題が起きないのが当然になっていた。
だから感謝もされない。
評価もされない。
“できて当たり前”だった。
「俺だけは見ていた」
その言葉に。
リリアーナの呼吸が、わずかに止まる。
レオンハルトは普段、感情を表に出さない。
だが今の声は違った。
低く静かなのに。
熱がある。
彼の視線が、まっすぐ彼女を捉えて離さない。
まるで長い間、閉じ込めていた何かが滲み出るように。
リリアーナはそこでようやく気づいた。
――ああ、この人。
ずっと前から。
その考えが浮かんだ瞬間。
不意に、昔の記憶が蘇る。
⸻
『殿下、こちら戦地支援の補給計画です』
数年前。
王宮の廊下で、リリアーナは騎士団用の資料を抱えていた。
戦況悪化に伴う補給線の見直し。
本来は軍部案件だ。
だがアルベルトが放置したため、彼女が調整していた。
その時。
『……補給路を変えたのか』
低い声。
振り返れば、レオンハルトが立っていた。
まだ今より若かった彼は、遠征帰りだったのだろう。
軍服に土埃がついていた。
『はい。東部街道は冬季凍結の危険がありますので』
『その変更案を出したのは誰だ』
『わたくしですが……?』
すると彼は、一瞬だけ目を見開いた。
驚いたように。
そして。
『……そうか』
それだけ言って去っていった。
当時のリリアーナは気づかなかった。
だが今ならわかる。
あの時から。
この人は、自分を見ていたのだ。
⸻
「殿下」
リリアーナは静かに口を開く。
「どうして、そこまでわたくしを評価してくださるのです?」
レオンハルトは少しだけ眉を寄せた。
まるで“そんなこともわからないのか”と言いたげに。
「結果を出しているからだ」
「……」
「努力して、責任を負い、逃げずにやり遂げている」
彼は淡々と続ける。
「それを評価しないほうがおかしい」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
打算もない。
媚びもない。
だからこそ、胸に刺さる。
リリアーナは、ゆっくり目を伏せた。
泣きたいわけじゃない。
なのに。
どうしてだろう。
こんなにも、救われた気持ちになるのは。
その時だった。
「それに」
レオンハルトが、不意に視線を逸らした。
珍しく。
ほんの少しだけ、言いづらそうに。
「……以前から、気になっていた」
「え?」
「君のことだ」
リリアーナが固まる。
対するレオンハルトも、なぜか僅かに耳が赤い。
沈黙。
風が白薔薇を揺らす。
そして侍女マリアは、限界だった。
(第二王子殿下が!?)
(あの氷血公子がこんな顔を!?)
だが当人たちは気づかない。
リリアーナは、胸の鼓動が妙にうるさいことに戸惑っていた。
――この人は危険だ。
優しい言葉に慣れていない心へ、真っ直ぐ入り込んでくる。
しかも本人は無自覚だ。
ずるい。
本当に、ずるい人だと思った。




