第3話:悪役令嬢は忙しい
リリアーナ・エヴァンジェリンは、“悪役令嬢”ではなかった。
少なくとも。
本当に彼女を知る者なら、誰ひとりそんな言葉は使わない。
むしろ逆だ。
彼女は誰より働き。
誰より責任を抱え。
そして、誰より報われなかった。
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「リリアーナ様、こちら北部領の収支報告です」
「ありがとう。机へ置いてちょうだい」
エヴァンジェリン公爵邸。
夜も更けた執務室で、リリアーナはペンを走らせていた。
机の上には山積みの書類。
領地経営に関する報告書。
王宮から届いた外交文書。
税制改革案。
冬季備蓄計画。
その量は、本来なら複数の官僚が処理する規模だった。
だが彼女は、それを一人でこなしている。
「……東部の小麦価格がまた上がっていますわね」
ぱらり、と書類をめくる。
「このままでは冬に北部への流通が滞るかもしれない……先に備蓄倉庫を増やしたほうが良さそうですわ」
さらさらと修正案を書き込む。
迷いがない。
侍女のマリアは、そんな主人を見て小さく眉を下げた。
「……お休みにならなくてよろしいのですか?」
「まだ駄目ですわ。明日までに王宮へ提出する外交文書も終わっておりませんもの」
「ですが、もう深夜です」
「ええ、知っています」
リリアーナは微笑む。
疲れを隠すような、いつもの微笑だった。
「未来の王妃たるもの、この程度で弱音は吐けませんわ」
その言葉に、マリアは何も返せなかった。
彼女は知っている。
リリアーナが、どれだけ無理をしてきたか。
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第一王子アルベルトは、華やかな男だった。
容姿に優れ、人当たりもいい。
表向きは理想の王子。
だが。
実務能力は壊滅的だった。
「殿下。こちら、北部貿易の資料です」
王宮執務室。
リリアーナが書類を差し出す。
アルベルトはソファへだらしなく座ったまま、面倒そうに片手を振った。
「置いておけ」
「確認はなさらないのですか?」
「後で見る」
――後で。
その言葉を、リリアーナは何百回聞いただろう。
そして。
“後で見た”ことは、一度もなかった。
三日後。
「殿下、北部との契約更新期限です」
「……ああ?」
「先日お渡しした資料に署名を」
「まだ読んでない」
「本日中に必要です」
「お前が確認したなら問題ないだろう」
ぽん、と書類へ適当にサインする。
それだけ。
中身も読んでいない。
リリアーナは唇を結んだ。
本来、あってはならないことだ。
王族が内容を確認せず署名するなど、政治的には致命的。
だが現実には。
それでも国が回っていた。
なぜなら。
リリアーナが全て先回りしていたからだ。
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「殿下。こちら、来月の予算案です」
「難しい話は任せる」
「西部の干ばつ被害については?」
「適当に支援しておけ」
「適当に、では困ります」
「ああもう、細かいな……」
アルベルトは露骨に顔をしかめる。
「お前はいつも説教くさい」
リリアーナは黙る。
本当は言いたかった。
これは説教ではない。
責任だ。
王になる人間が、“適当”で済ませていい話ではない。
けれど彼女は飲み込んだ。
未来の王妃として。
婚約者を支えるのが、自分の役目だと思っていたから。
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王宮の官僚たちもまた、徐々に感覚が麻痺していた。
「リリアーナ様なら何とかしてくださる」
それが口癖になっていた。
外交問題が起きれば、彼女。
税制の不備があれば、彼女。
貴族間の調整も、彼女。
いつしか。
第一王子派閥は、“リリアーナがいること”を前提に回るようになっていた。
けれど。
誰も感謝しなかった。
あまりにも自然だったから。
空気のように。
彼女が支えていることが、“当たり前”になっていた。
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そして。
卒業舞踏会の夜。
すべてが壊れた。
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婚約破棄の翌日。
リリアーナは王宮へ呼び出された。
応接室には、青ざめた官僚たちが並んでいる。
「リリアーナ様! 北部貿易の契約書ですが……!」
「外交会談の日程調整を……!」
「予算案の修正が必要で……!」
口々に助けを求める声。
けれど。
リリアーナは静かに首を傾げた。
「なぜ、わたくしに?」
一同が固まる。
「え……?」
「わたくし、アルベルト殿下の婚約者ではなくなりましたわよね?」
「そ、それは……!」
「でしたら」
リリアーナは、にこりと微笑む。
「もう働かなくてよろしいですわね?」
絶句。
官僚たちの顔色が変わる。
その瞬間、彼らは初めて理解した。
自分たちが、どれほど彼女へ依存していたのか。
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そして翌月。
王宮は崩壊した。
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「予算管理がわからん!?」
「誰だ、この外交文書を書いていたのは!?」
「北部との契約更新が止まってるぞ!!」
「西部領主が激怒しています!」
「第三騎士団への補給申請が通ってません!」
阿鼻叫喚だった。
特に酷かったのはアルベルトだ。
「なぜこんなことになる!?」
執務室で怒鳴り散らす。
だが官僚たちも限界だった。
「殿下が確認を怠ったからです!」
「リリアーナ様が処理していた案件です!」
「こちらでは把握しきれません!」
「そんなもの、お前たちが何とかしろ!!」
「無理です!!」
机を叩く音。
怒号。
積み上がる書類。
誰も収拾できない。
なぜなら今まで、その役割を全部リリアーナが担っていたからだ。
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北部との交易も止まった。
「リリアーナ嬢はどうした」
北部領主は不機嫌だった。
「あの令嬢だから信用して契約していたのだが?」
その一言で、王宮側は青ざめる。
さらに。
「東方連合から抗議文です!」
「は!? なぜだ!」
「外交文書の敬称が間違っております!」
静まり返る執務室。
誰かが呟く。
「……そんな初歩的なミスを、リリアーナ様は一度もしなかった」
沈黙が落ちた。
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その頃。
リリアーナは久しぶりに穏やかな朝を迎えていた。
公爵邸の庭園。
陽だまりの中、ゆっくり紅茶を飲む。
こんな時間は、何年ぶりだろう。
「……平和ですわね」
ぽつりと零す。
マリアが、どこか泣きそうな顔で笑った。
「ようやく、お休みになれております」
リリアーナは少しだけ目を細める。
風が心地いい。
書類に追われない朝。
誰かの尻拭いをしなくていい時間。
こんなにも、世界は静かだったのか。
その時だった。
「失礼する」
低い声。
振り返れば、そこには黒髪の青年が立っていた。
第二王子レオンハルト。
彼は庭園を見回し、そしてテーブルの上を見た。
書類がない。
その事実に、僅かに眉を上げる。
「珍しいな」
「何がですの?」
「君が休んでいる」
リリアーナは、一瞬だけきょとんとした。
それから、小さく笑う。
「ええ。失業中ですもの」
その言葉に。
レオンハルトは初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。




