第2話:完璧令嬢の反撃
静寂が、広間を支配していた。
誰ひとりとして動かない。
先ほどまで流れていた音楽も止まり、聞こえるのはシャンデリアの蝋燭が小さく爆ぜる音だけ。
王太子アルベルトの婚約破棄宣言。
そして、その断罪。
本来ならば、ここでリリアーナ・エヴァンジェリンは泣き崩れ、社交界から転落するはずだった。
だが現実には。
追い詰められているのは、断罪した側だった。
リリアーナは静かに扇を閉じる。
その仕草ひとつが、不思議なほど洗練されている。
動揺がない。
怒鳴りもしない。
感情に任せて反論もしない。
ただ淡々と、事実だけを積み上げていく。
だからこそ恐ろしい。
アルベルトの額には、じわりと汗が滲み始めていた。
「だ、だが……!」
彼はなおも声を荒げる。
「セシリアは確かに傷ついていた! 毎日怯えていたんだ!」
「ええ、そうでしょうね」
リリアーナはあっさり頷いた。
その反応に、アルベルトのほうが戸惑う。
「な……」
「人は、嘘を重ねれば重ねるほど怯えるものですわ」
ざわり、と空気が揺れた。
セシリアの肩がびくりと震える。
「ち、違っ……!」
「では確認しましょう」
リリアーナは懐から小さな魔道具を取り出した。
銀色の結晶が埋め込まれた円盤型の道具。
録音魔道具。
貴族社会では証拠保全のため、正式な茶会や会談で使われることも多い。
リリアーナはそれを指先で軽く撫でた。
「三週間前、王宮東棟で行われた茶会の記録です」
セシリアの顔色が、一瞬で変わる。
広間の何人かが息を呑んだ。
まさか、本当に記録を残していたとは思わなかったのだろう。
リリアーナは淡々と再生魔法を起動する。
次の瞬間。
透明な音声が、広間へ響き渡った。
『……リリアーナ様、素敵なお召し物ですね』
セシリアの声。
少し緊張したような、控えめな響き。
続いて。
『ありがとう、セシリアさん。あなたのリボンも可愛らしいわ』
リリアーナの穏やかな声。
『っ……』
短い沈黙。
録音はそこで終わった。
広間が静まり返る。
誰もが思った。
――どこに侮辱があるのか、と。
むしろ普通の会話だ。
いや、それどころか。
リリアーナのほうが気遣っているようにすら聞こえる。
ざわざわと囁きが広がっていく。
「これのどこが……」
「普通のお茶会では?」
「リリアーナ様、優しくない?」
「そもそも侮辱発言が存在してないわ……」
アルベルトの顔が引き攣った。
「お、おかしい……! セシリア、お前は確かに……!」
助けを求めるように隣を見る。
だがセシリアは真っ青な顔で唇を震わせるだけだった。
リリアーナは優雅に一礼した。
「殿下」
静かな声。
「証拠とは、“あると思うもの”ではなく、“示すもの”ですわ」
その瞬間。
完全に空気が変わった。
今までは“悪役令嬢の断罪劇”を楽しむ側だった貴族たちが、徐々に距離を取り始める。
感情で怒鳴る王子。
冷静に証拠を積み重ねる令嬢。
どちらに理があるかなど、もう明白だった。
アルベルト自身も、それを感じ取っているのだろう。
だが彼は認められない。
自分が間違っていたなど。
自分が利用されていたなど。
「そ、それでも! セシリアを孤立させていたのは事実だ!」
「孤立?」
リリアーナは小さく首を傾げた。
「わたくし、彼女へ何度も茶会の招待状を送っておりますが」
「……え?」
「学院内で馴染めないようでしたので、少しでも貴族社会に慣れていただこうと思って」
周囲の令嬢たちが顔を見合わせる。
その話は、彼女たちも知っていた。
リリアーナ主催の茶会は格式が高い。
本来なら、平民出身のセシリアが簡単に招かれる場ではない。
つまりそれは。
リリアーナなりの配慮だったのだ。
「ですがセシリア様は、すべて断っておられますわね」
セシリアの肩が震える。
「それは……だって、わたし……!」
「貴族が怖かった?」
「っ……」
「それとも」
リリアーナは静かに目を細めた。
「“虐げられている平民”という立場のほうが都合が良かったのかしら?」
その言葉に、広間が凍った。
セシリアの顔が青から白へ変わる。
「ち、違う……!」
「違う?」
リリアーナは一歩近づく。
ヒールの音が、静まり返った空間に響いた。
「では、なぜ?」
淡々と。
逃げ場を塞ぐように。
「なぜ、あなたは“わたくしに虐げられた”などと言ったの?」
「わ、わたしは……!」
「誰に吹き込まれたの?」
セシリアの瞳が揺れる。
追い詰められている。
誰の目にも明らかだった。
アルベルトが苛立ったように声を荒げる。
「やめろ、リリアーナ! セシリアを脅すな!」
「脅し?」
リリアーナはゆっくり振り返る。
「事実確認ですが?」
「お前はいつもそうだ! 正論ばかり並べて、人を追い詰める!」
その言葉に。
リリアーナは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
ああ、と。
胸の奥で何かが冷える。
この人は。
ずっと、そう思っていたのだ。
自分が彼を支えるために積み上げた努力も。
失敗しないよう先回りしていた忠告も。
全部。
“責められている”ように感じていたのだろう。
少しだけ、虚しくなった。
だが同時に。
不思議なほど、心は静かだった。
もう終わったのだ。
ならば、未練はいらない。
リリアーナが口を開こうとした、その時。
「――そこまでだ」
低く、よく通る声が響いた。
空気が変わる。
広間の奥。
人々が無意識に左右へ道を開けた。
現れたのは、黒髪の青年だった。
漆黒の軍服。
鋭い金の瞳。
冷たい美貌。
その姿を見た瞬間、貴族たちが一斉に息を呑む。
「レオンハルト殿下……!」
第二王子レオンハルト。
王国最強の騎士。
“氷血公子”と恐れられる男。
冷酷非情。
情け容赦なし。
誰にも媚びず、誰にも興味を示さない。
そんな男が、舞踏会へ姿を現しただけでも異例だった。
まして。
彼は真っ直ぐリリアーナを見ていた。
アルベルトが顔を歪める。
「レオン! これは兄である私の問題だ!」
「だから見苦しいと言っている」
氷のような声だった。
「証拠も確認せず、感情だけで婚約者を断罪。王族として恥だな」
「なっ……!」
「兄上」
レオンハルトは冷たく言い放つ。
「あなたには、“見ようとする目”が決定的に欠けている」
アルベルトが絶句する。
周囲の貴族たちも、誰も口を挟めない。
レオンハルトはそのままリリアーナの前まで歩み寄った。
近い。
彼女より頭ひとつ分高い位置から、金色の瞳が静かに見下ろしてくる。
「……災難だったな」
低い声。
不器用だが、確かに気遣う響きがあった。
リリアーナは少し驚く。
この男が、人を慰めるような言葉をかけるとは思わなかった。
「お気遣い、ありがとうございます」
「礼はいい」
レオンハルトは短く告げると。
無言で、彼女へ右手を差し出した。
「来い」
広間がざわめく。
リリアーナも瞬きをした。
「……どちらへ?」
「こんな茶番に付き合わせた詫びだ」
レオンハルトは僅かに眉を寄せる。
「紅茶でも飲ませろ」
一瞬。
静寂。
次の瞬間、周囲が大きくどよめいた。
(えっ!?)
(今、第二王子殿下が誘った!?)
(しかも自分から!?)
誰もが信じられなかった。
あの氷血公子が。
女性を遠ざけ続けてきた男が。
自ら手を差し出している。
しかも相手は。
たった今、“悪役令嬢”として断罪されたばかりの女。
リリアーナはその手を見つめる。
大きな手だった。
剣を握り続けてきた人の手。
無骨で、不器用で。
でも、不思議と温かそうだった。
そして彼女は気づく。
この人だけだ。
最初から最後まで。
自分の話を、ちゃんと聞いていたのは。
リリアーナはふっと目を細めた。
それは今夜初めて見せる、柔らかな微笑だった。
「ええ」
彼女は静かに、その手を取る。
「でしたら、とびきり美味しいものをご用意いたしますわ」




