最終話:悪役令嬢は幸福に笑う
冬の夜風が、静かに吹いていた。
王宮の高いバルコニー。
眼下には、王都の灯りがどこまでも広がっている。
まるで星を地上へ散りばめたような景色だった。
「……綺麗ですわね」
リリアーナ・エヴァンジェリンは、そっと呟く。
その声音は穏やかだった。
少し前までの彼女なら、こんな風に夜景を眺める余裕などなかっただろう。
常に何かに追われていた。
王太子妃教育。
政務補佐。
外交調整。
領地運営。
失敗してはいけない。
期待を裏切ってはいけない。
そうやって、自分を張り詰めさせ続けていた。
けれど今は違う。
胸を締め付ける焦燥感はない。
背負い込んでいた重圧も、少しずつ消えていた。
隣に立つ人が。
“ひとりで頑張らなくていい”と、何度も教えてくれたから。
「寒いか」
低い声が耳へ届く。
振り返れば、レオンハルトがこちらを見ていた。
相変わらず無表情に近い。
けれどその金色の瞳は、驚くほど優しい色をしていた。
「少しだけ」
リリアーナが答えると、彼は何も言わず外套を脱いだ。
そして。
そっと彼女の肩へかける。
自然な動作だった。
慣れているわけではない。
むしろ少し不器用ですらある。
それなのに、どうしてこんなにも胸が温かくなるのだろう。
「……ありがとうございます」
「ああ」
短いやり取り。
でも心地いい。
レオンハルトは必要以上を語らない。
けれど、その沈黙が不安になったことは一度もなかった。
彼はいつだって、言葉より先に行動で示してくれるから。
⸻
婚約が正式に発表されてから、一ヶ月。
王宮は大きく変わった。
アルベルトの王位継承権は正式に剥奪され。
レオンハルトが次期国王として表舞台へ立つことになった。
最初、貴族たちは恐れた。
氷血公子が王になるのか、と。
冷酷な王が誕生するのではないか、と。
だが。
実際に政務を始めた彼は、驚くほど有能だった。
判断が早い。
無駄がない。
責任逃れをしない。
そして何より、“結果”を出す。
混乱していた外交も立て直され。
停滞していた領地問題も整理されていった。
官僚たちは涙を流して喜んだという。
『話が通じる……!』
『決裁が止まらない……!』
『確認した書類を本当に読んでくださる……!』
かなり末期だった。
ちなみに、その隣には当然のようにリリアーナがいる。
ただし以前とは違う。
全部を抱え込まない。
レオンハルトが、それを許さなかったからだ。
『仕事を分担しろ』
『ですが――』
『お前が倒れたら意味がない』
真顔で言われた。
しかも周囲の官僚まで全力で頷いていた。
結果。
リリアーナは初めて、“誰かに頼る”ことを覚え始めていた。
⸻
「……不思議ですわ」
夜景を見つめたまま、リリアーナは小さく呟く。
「何がだ」
「以前のわたくしは、幸せになれると思っていませんでした」
レオンハルトが静かに視線を向ける。
リリアーナは少しだけ苦笑した。
「未来の王妃になることが、わたくしの役目でしたから」
努力すること。
支えること。
完璧でいること。
それが人生なのだと思っていた。
だから“自分自身の幸せ”を考えたことがなかった。
けれど。
婚約破棄されて。
全部失って。
初めて気づいたのだ。
自分はずっと、苦しかったのだと。
そして。
そんな自分へ手を差し伸べてくれた人がいた。
リリアーナはゆっくりレオンハルトを見る。
この人は不器用だ。
優しい言葉を並べるのは得意じゃない。
愛想もない。
怖がられる。
でも。
誰より誠実だった。
彼は一度も、“完璧な令嬢”を求めなかった。
弱いところも。
疲れているところも。
全部見た上で、“支えたい”と言ってくれた。
だから。
きっと自分は救われたのだ。
「ねえ、殿下」
「なんだ」
リリアーナは少し悪戯っぽく笑った。
「わたくし、“悪役令嬢”だったそうです」
社交界では散々言われていた。
冷たい女。
厳しい女。
完璧すぎて近寄りがたい女。
平民の少女を虐げる悪役令嬢。
けれど。
レオンハルトは即座に言った。
「馬鹿馬鹿しい」
迷いのない声だった。
「お前はただ、誰より誠実だっただけだ」
リリアーナが目を見開く。
レオンハルトは彼女の手を取る。
大きくて温かい手。
あの日。
初めて握られた時のことを思い出す。
婚約破棄の夜。
誰も信じられなくなりそうだった時。
この人だけが、自分を見ていてくれた。
「お前はずっと、国のために働いていた」
低い声が静かに響く。
「誰より責任を負い、誰より努力していた」
レオンハルトは真っ直ぐ彼女を見る。
「だからもう、自分を悪役などと言うな」
その言葉に。
リリアーナの胸が熱くなる。
昔の自分なら、きっと否定していただろう。
『そんなことありません』
『まだ足りません』
そう言っていたはずだ。
でも今は違う。
ようやく少しだけ、自分を認められる。
頑張ってきたのだと。
苦しかったのだと。
そして。
幸せになってもいいのだと。
夜風が優しく吹き抜ける。
王都の灯りが揺れる。
リリアーナは、ゆっくり目を細めた。
そして。
今度こそ、心から笑う。
断罪の夜には浮かべられなかった笑顔。
完璧な令嬢の仮面ではない。
ひとりの女性としての、幸せな笑顔だった。
その表情を見た瞬間。
レオンハルトはわずかに目を見開いた。
「……殿下?」
「いや」
彼は視線を逸らす。
耳が少し赤かった。
「その顔は反則だろう」
「……は?」
突然の言葉にリリアーナが固まる。
一方で、少し離れた場所に控えていた侍女たちは、今日も限界だった。
(出ました無自覚殺し文句!!)
(第二王子殿下、それ素で言ってます!?)
(お嬢様の笑顔を見て照れてるの尊すぎます……!!)
だが当人たちは気づかない。
リリアーナは呆れたように笑って。
レオンハルトは少しだけ居心地悪そうに咳払いをした。
冬の夜。
王宮のバルコニー。
そこにいたのはもう、“悪役令嬢”ではない。
ようやく幸せを掴んだ、一人の女性だった。




