95 紫色の空
楓は勢いよくレコード室に走り込んだ。レコードの演奏が止んでしまっていた。楓は古いジャケットのレコードを棚の奥から引っ張り出した。マスターは先程からトイレにこもっている。楓はレコードをかけると勢いよくカウンターに戻って鋭い視線で、彼の顔を見た。
慎吾は、弾かれたように楓の顔を見た。ふたりの視線が合わさった。
楓がかけたレコードはジャズピアニスト、ビル・エヴァンスの名盤「アンダーカレント」だった。
繊細な緊張感がみなぎるピアノの音色が店内に響き始めた。人間の深層心をたどるような響きに、ギターの柔らかい音色がからみつくに、独特の匂いを立ち昇らせていた。ふたつの音色の流れが交差しながら、その場を雰囲気を呑み込んでゆく。そして店内の人間の心中をことごとくかき乱し、癒し、そして深い瞑想へと導いてゆくのだった。
強烈な意志が、脳裏に降りかかってくるようだった。
(わたしの気持ちはこんななんだ!)
どうだと言わんばかりの楓の鋭い視線に、慎吾は頷くと、口を一文字に閉じて、スピーカーを凝視していた。
かかっている曲は「マイファニーヴァレンタイン」である。
曲は次第に盛り上がっていった。燃えるようで冷たいふたりの演奏、時々見せる悲しげな響き、じんわりと胸に染みた。楓は深い瞑想に陥った。
その後に続くどこかセンチメンタルな曲の数々も、ふたりの微妙な関係を暖めてくれた。
(来てくれたんだ。柿崎さんは、わたしのために……)
楓は不思議な運命を感じながら、美しく彩られてゆく世界にすっかり心を奪われた。
マスターがトイレから出てくる。そしてふたりの様子を見ると安心したようにカウンターの奥へと戻っていった。
一時間ほど経った時、慎吾はテーブルの上でお金をまとめて、ゆっくり立ち上がった。そしてカウンターの楓へと近づいてきた。
「ありがとうございました……」
楓はお金を受け取りながら、謙虚な気持ちでお礼を言った。
「今日は、楽しかったです……」
慎吾はそう言うとお釣りを受け取り、にこっと微笑んで、入り口へと歩いていったので、楓は弾かれたようにカウンターから出て、慎吾と一緒に外へと飛び出した。
外はすでに夕暮れの紫色の空だった。楓は慎吾になんて言ったらいいのか分からなくて静かにうつむき佇んでいた。
「明日、もし会えたら、嬉しいです」
と慎吾が言ったので、楓はすっと顔を上げた。楓は咄嗟になんて言ったらいいのか分からなかった。それはずっと前からそのままで、なんて言ったらいいのか分からずにこうして棒のように立っているのだった。それなのに楓は自然に口を開いていた。
「わたしも……」
無意識に自分の口から出たその言葉に、楓はどうしてよいか分からず、そのまま黙ってしまった。
慎吾の姿が見えなくなった後、楓は眼前に広がる紫色の空が、深い闇へと溶け込んでゆく夢のような悲壮美にしばし心を奪われていた。




