94 楓の計算
楓は覚悟を決めてゆっくり慎吾の元へと歩み寄った。慎吾はジャズ喫茶の棚にあるジャズ雑誌のバックナンバーを手に取って読んでいた。おそらく内容が理解できないのだろう。眉に皺を寄せて、難しい表情をしている。
店内には、鉄琴の如きヴィブラフォーンの音色が淀みなく響き渡っていた。
楓が近づいてきていることに慎吾は気付き、ふと顔を見上げて、ジャズ雑誌を慌ててテーブルの端に置いた。
「なにかリクエストがあれば……」
「あっ、いや、リクエストできるほどは……」
慎吾は、曖昧に微笑む。楓は意を決して、また隣の席に座った。またふたりの間に沈黙が生まれる。
(へ、変な沈黙が……!)
楓はすっかり青ざめて、微動も出来なくなった。
慎吾も緊張しているらしく、コップの水ばかり飲んでいる。
「大学……」
慎吾は、ぼそりとそう呟いたが、何の会話も始まらなかった。楓はまじまじと慎吾の顔を見たが、彼は困っている様子で、
「いや違う……」
と小さな声で言った。
「あ、明日も大学ですか?」
思い切って楓はそう尋ねてみた。
「いえ、明日はちょっと用事があって白緑山寺に行く予定なんです」
「白緑山寺へ……」
そう言えばこの人、自分の父親の仏教書を読んでいたな、と楓は思った。神仏習合に関する本だった。そして白緑山寺もまた神仏習合の霊場なのだ。
「観光ですか?」
一体誰と、という言葉が楓の脳裏に浮かんだが、喉が焼け付いたようになってしまって出てこない。
「いえ、ちょっと観光とも言えないのですが、民俗学の教授と私立探偵と一緒に行くことになっているんです」
「民俗学の教授と、私立探偵……?」
楓はその言葉に衝撃を感じて、思わず繰り返した。民俗学の教授と私立探偵のコンビといったら楓は一組しか知らない。
(間違いない……)
楓はすかさず、質問を続ける。
「何時ごろに行くんですか」
「朝の七時にバス停に集まって行く予定です」
「ふうん……」
楓は、頭の中で一つの計算が仕上がった。どういう訳でこうなったのか分からないが、明日、自分も白緑山寺に行こうと思った。アルバイトは休みだし、大学の授業は休んでも構わないと思った。せっかく好きな人と会えたのだから、このまま自然消滅してしまわないように、偶然を装って、明日、白緑山寺で出くわそうと思った。それにしても不思議なのは、民俗学の教授と私立探偵のコンビである。一体、どういう接点なのだろうか。楓は、父親にあまりしゃしゃり出て欲しくない気持ちと、上手くいけば彼との繋がりを強められるという気持ちとを、両面併せ持っていた。
(明日、白緑山寺に行こう……)
楓はごくりと生唾を飲み込んだ。
「偶然ですね。わたしも……明日、ちょっと用があって……」
「えっ……」
慎吾は、意外そうな表情で楓を見つめた。
「白緑山寺に行くんです。偶然、会っちゃうかもしれませんね……!」
そう言うと楓は恥ずかしくなって、椅子をガタッと音を立てて、立ち上がるとすかさず踵を返して、その場から去ったのだった。




