63 円悠の死生観
「おっしゃることは大分分かってきました。しかし、その絶対無であるところの「空」を認識したとして、何が変わるのでしょうね。わたしが思いますのは、結局人間は何らかの観念に依存しなければ生きてはいけない生き物です。社会がそういうものですし……。もしあなたがさまざまな観念に惑わされなかったり、ありとあらゆる存在が因果によって仮に生じたものにすぎないと認識し得たとしても、やはり何も変わらないのではありませんか?」
祐介のこの鋭い指摘は、円悠の仏教論をついに喝破するものかに思われた。
「ええ、物質の上では何も変わりません。また傍目から見てそこに大きな違いが生じるものではありません。それどころか、あえて格別特殊な意識を持って自分を変革する必要もないのです。ただありのままに物事を認識することができれば、自分というものに固執することも、他者に固執することもなくなります。すべてを捨ててはじめて自由になれるのです」
祐介はしみじみと目の前の若い僧侶の顔を拝んでいた。仏道を志した人間の出家という観念が、このように世俗の認識を遠ざけているのだろうか、と思った。
「ところで昨日、白緑山寺で殺人事件が起こりましたね」
と祐介は話題を変える。
「ええ」
「どうお考えですか?」
祐介はこの若い僧侶がどんな意見を持っているのかひどく気になっていた。
「不幸なことです。人間はいつどんな風に死が訪れるか分からないものです。わたしは被害者を供養することが肝要だと思います」
禅問答臭かったこの若い僧侶が、今度は一般の僧侶のような当たり障りのないことを平然と言ったので祐介はわずかに白けた。
「しかし円悠さんのお話にしたがうと、死というのも幻のようなものだと考えなくてはならないのではありませんか」
「と仰いますと……」
「存在が非存在になるのがすなわち「死」ということでしょう。しかし存在するも存在しないも、観念や因果の寄せ集めで、仮に生じているにすぎず、本来は何もないものなのだとしたら……」
「それは確かに仏教的な捉え方です」
「当然そうなるでしょう。ならば、幻のようなもののために供養をなさるということでしょうか」
「人間存在が幻のようなものであるというのは、この世に人間として存在するのも存在しないのも、生も死も、この宇宙という一つの大河の流れに生じたひとつの波にすぎないということでございます。波が落ち着けば、そこには平らかな水面が現れます。それが涅槃というものです。ですから死後、魂はあの極楽浄土である白緑山を彷徨い、そしていつしか祖霊という存在となって、大きな自然の生命に帰するのです。しかし忘れてはならないのが、生きていても死んだものであっても我々ははじめからこの自然という生命の一部なのです。これこそ日本の霊魂信仰でなくて何でありましよう。そこに心をこめた供養が必要なのです」
円悠はそう呟くように言うと、なにか物思いに耽っているように天井を見上げた。
「白緑山寺が極楽浄土ということですが、つまり魂はあの山を彷徨うわけですか」
「ええ」
「それとあの観音菩薩像は関係がありますか?」
観音堂で起こったふたつの事件に何か関わりがあるかもしれない、と祐介は思った。
「この世に関係がないものはありません。すべての存在は互いに関わり合っているのです……」
と円悠は言い切ると瞑想するように目を瞑った。




