64 湯呑みの問答
羽黒祐介は、名探偵という自負のせいで、この若い僧侶に問答で負けるというのは避けたい気がした。
「円悠さんのおっしゃることは、たとえば、先程おっしゃった因果というものを考えますと……、原因があって存在が生じる。その原因が持続する限りにおいては存在し続ける。しかし、その原因が無くなると存在は消滅してしまう。ゆえに存在は仮に生じた、夢や幻のようなものだというのでしょう」
「ええ」
「それでは、その原因によって存在が一つの「確かな実体」として生じているとも捉えられるわけですよね。たとえば、この湯呑みも今は机の上に存在しているわけですし、こうして握りしめると手のひらが熱い……。熱いという知覚も存在しているわけですよね。それを果たして夢や幻と捉えられますか……?」
「湯呑みが湯呑みであるのは、まさに一時的な仮の姿に違いありません。本来の姿ではなく、仮に生じた姿です。熱いという知覚もまた同じことです。粘土やガラス質の釉薬が合わさって、そうして湯呑みの条件が備わって、羽黒さんがそれを湯呑みと捉えているのは、まさに一夜の夢のようなものであります。存在と存在とが合わさって、影響しあって、ひとつの存在が生まれます。しかし、それが解ければ消滅してしまう。何一つこの世に絶対的な存在というものはない。あるいは、それぞれの存在というものがないならば、この世にはただ一つの宇宙という存在があるだけであります。一切のものがただ一つだという認識。それが空というものです……」
一切のものがただ一つだという認識……。祐介はますます訳が分からなくなって、目の前の湯呑みを手に取った。
「聡明な若き僧侶であるあなたに、ここにある湯呑みを例に上げて、あらためてお尋ねしましょうか。たとえば、この湯呑みを今、僕が床に落として、粉々に壊したと致しましょう。それは湯呑みが湯呑みではなくなかった瞬間ですね。しかし、そもそも湯呑みというものははじめから存在していないに等しいものであって、夢や幻のようなものにすぎないと捉えられますね。すると、湯呑みに固執することは馬鹿馬鹿しい。湯呑みが壊れたことに慌てたり、焦ったりするのはそもそもおかしいということになりますね」
「その通りですね」
「それならば、これを人間に置き換えてみましょう。人間も同じように現在、生きている人が病の果てに亡くなったりする。しかし、そもそも人間もはじめから存在していない等しいもので、夢や幻のようなものに過ぎないものということになりますと、人間の生に固執することはない。ならば、死んだことを憐れんだり、悲しんだりするのはそもそもおかしいということになりますね。
それなのに死者を供養するという行為が何故、成り立つのか、必要なのか、ということです」
円悠はこの鋭い指摘にまったく動じる様子がなかった。
「供養の必要性はまったく他のところにあります。そもそも、供養というものを羽黒さんは誤解なさっておられるようです。
羽黒さん。その湯呑みが床に落ちて、粉々になったとしましょう。しかしそもそも湯呑みは本来そのようなものでした。砂塵だったのであります。それが湯呑みとして使われていたのはまさに一夜の夢の如きものでした。人間の都合に関係なく、湯呑みは自然に帰ったのであります。
人間も同じようなものです。少なくとも人間にとって生きているということは、仮にも生じているということです。自我を持って生きているということです。ひとつの存在であるということです。それこそが仮相というものです。ところが人間は亡くなると、やはり無に帰するのであります。ここで大切なのは、供養というのは生前の罪業を滅却することだということです。つまりは生前の自我を滅却して、無我となることであります。自我が滅却されて、無我となった果てに霊魂は、やがて自然に帰ってゆく。浄化された死霊は、祖霊になって山神になる。その時に霊魂にはもはや自我がないのであります。これは古より伝わる日本人の信仰のあり方です。日本仏教もやはりここに至ります。
供養は人間の生に固執するあまり行っているのではありません。また人間の存在に固執するあまり行っているのではありません。むしろ死者を生に固執させまい、存在に固執させまいとする気持ち。霊魂を無我の境地に帰するために、生前の罪業を浄化して自然に帰するのが供養というものであります」
祐介はますます訳がわからない気持ちになった。
「しかし供養という行為を行わなくても、人間は本来、夢や幻のような存在なのでしょう? それならば、供養という行為は必要がないということになるでしょう?」
「本来そのようなものであっても、一般人にはそのように認識できないということがあります。
こうお考えになってください。たとえば自分が夢や幻のような存在だと認識するのはすなわち悟りの境地、涅槃であります。本来あらゆるものはそのようなものであります。しかしながら、煩悩の如き数多の固定的な観念や情緒に悩まされている限りは、自己をそのように認識することはできません。この迷妄に苦しんでいる時は、自分という存在は仮にもこの世に存在しており、他と対立している状況であります。すなわちこれが人間が自我を持っている状況であります。つまり自我がある時には、自己は存在しており、無我に達した時にはじめて、自己を存在しないものと認識できるのであります」
「ふむ……」
「死者も同じことです。供養を繰り返して浄化された先には、もはや自分というものがなくなる。自然に帰するということです」
祐介は訳の分からなさが頂点を迎えたので、問答の矛先を別に向けることにした。
「それでは、別の質問を致しましょう。わたしがこの湯呑みを素手で掴んで、そこの床の間に投げつけて割ったと致しましょう。わたしは悟りの境地にあって、それが湯呑みであって、湯呑みではないことを理解していることから、それが単に自然に帰すことで、悪いこととはまるで考えません。しかし他の人物がその場にいて、空ということをまるで知らなかったとしたら、わたしが湯呑みを割ったことを怒り、わたしを批判すると思うのですが、こういう場合についてはどうですか?」
「湯呑みが壊れたことで自然に帰ったのは事実であります。人間の都合によって、それは悪業ともなりうるわけですが……。
あなたは悟っている。相手は悟っていない。相手は悟っていないからあなたの悟りを理解することができない。だから湯呑みのことでも、あなたと相手は分かりあうことができないのです。ところが、その相手の気持ちというのも、すなわち空なのであります。変転する心はとどまることを知らない。まさに夢や幻の如きものです。そうした絶対的ではないものを引っ提げて、あなたを批判している。
そして相手に理解されないことを悩むあなたの心もまたそのあり方は空なのです。湯呑みはもちろんのこと、双方の心が夢や幻のようなもので、いずれは崩壊する運命にあります。そうした心にも固執する必要がないのです」
「はあ……」
祐介はなんと言ってよいか分からなくて、呆然としていたが、湯呑みを掴んで、円悠にそっと突きつける。
「それでは、この湯呑みを題材に、もう一つばかりお尋ねしましょう。あなたがおっしゃるように、夢や幻のようなもので、仮の存在にすぎないとしたら、この湯呑みは実に空虚なものですね。ところがこの湯呑みは丸みを帯びていて触り心地もよく、側面に描かれた中国の山林の中に五重塔がそびえている絵は大変味わい深いものです。これには何の価値もないとお考えですか?」
円悠はその湯呑みを受け取るとまじまじと見つめるとこう語り始めた。
「羽黒さん。わたしには価値というものがなにをさすのか分かりませんが、たとえば、一夜の夢がとても美しいことはありますでしょう。それがいつかは覚めてしまう夢であってもです。縁や因によって生じたものは、それらがほどければ無くなってしまうのは自明の理です。だからといって価値がないというわけではないのですよ。美しい夕焼け空を見た時、それが紫色に染まっていつかは夜となり、二度と同じ光景は見れないとしても、その夕暮れ空を見た時の感動が損なわれるというわけではありません。散ってしまう桜の花は、むしろ刹那の存在であるからこそ美しいということがあります。また刹那の付き合いは一期一会とも申しましょう。その刹那の中に何にも優る壮大なものが含まれているのであります……」
円悠はしみじみとそう語って、どういうわけか羽黒祐介の手渡した湯呑みの茶を一口、すすった。




