第3話:「毒親から逃げます(笑)」悲劇のヒロインを気取る娘と、一通のメッセージ
翌朝。
生誕祭オール明けの結衣が、足音も荒くリビングへ入ってきた。
声を枯らしたのか少し喉を鳴らしながら、無言で冷蔵庫を開け、麦茶をラッパ飲みする。
私は、昨晩からずっと胸の奥で冷え切っていた感情のまま、静かに、だが毅然とした声で告げた。
「……結衣。昨日持っていった一万円、返してちょうだい」
ピシャリと乱暴に冷蔵庫のドアが閉まる。結衣は、汚いものでも見るような目を私に向けた。
「はぁ!? あんたまだそんなこと言ってんの? あれはもうルカくんの投げ銭とチェキ代に消えたから。ていうか、親が子供の夢にお金出すの当然でしょ!」
「当然じゃないわ。それは、私たちが生きていくための大切なお金だったの。……お金を入れないなら、もうこの家を出ていきなさい」
「は……?」
結衣は目を丸くした。
私がこんな風にはっきりと「出て行け」と言ったのは、初めてだったからだろう。
しかし、次の瞬間には顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「自分の稼ぎが少ないのを棚に上げて、娘の青春を潰しようとしてるくせに! わかったよ! こんな息苦しい家、こっちから捨ててやる!」
結衣はドカドカと自室へ向かうと、数分後、大きなキャリーケースを引きずって戻ってきた。
隙間からは、着替えの服よりも大量の『ルカ』のグッズが見え隠れしている。
彼女は片手で器用にスマートフォンを操作しながら、せせら笑った。
「毒親から逃げますって、SNSで報告しなきゃね(笑)。みんな絶対『結衣ちゃん可哀想』って慰めてくれるし。せいぜい、一人寂しく底辺の生活を送ればいいわ。私はルカくんに養ってもらうから!」
そう吐き捨てると、結衣はキャリーケースの車輪をけたたましく鳴らしながら、今度こそ本当に家を出て行った。
バタン、と重いドアの音が響き、室内は再び静寂に包まれた。
私は不思議と、追いかけようという気にはなれなかった。
代わりに込み上げてきたのは、深い悲しみと、そして……ほんの少しの安堵だった。
彼女は「ルカに養ってもらう」などと言っていたが、ただのファンをアイドルが養うわけがない。
実家の家賃も光熱費も食費もすべてタダだと思い込んでいる彼女が、一人暮らしでどれだけお金がかかるか、理解しているはずもなかった。
(……でも、もう私には関係のないことね)
頬を伝う一筋の涙を、荒れた手の甲でそっと拭う。
もう、泣くのはやめよう。母親としての役目は、昨日あの子に突き飛ばされた瞬間に終わったのだ。
その時、テーブルの上に置いてあった私のスマートフォンが短く震えた。
画面に表示されたのは、昨晩登録したばかりの『婚活アプリ』からの通知だった。
『マッチングが成立しました! 高橋 誠さんからメッセージが届いています』
ビクッと肩が揺れる。
恐る恐る画面を開くと、そこには誠実そうなスーツ姿の中年男性の写真と、丁寧なメッセージが表示されていた。
『はじめまして、高橋と申します。プロフィールを拝見し、とても優しくて芯の強い方だなと惹かれました。もしよろしければ、少しお話ししてみませんか?』
高橋誠さん。年齢は私より少し上の五十四歳で、会社役員と書かれていた。
私のような、身なりも構う余裕のなかったおばさんに「惹かれた」なんて、お世辞に決まっている。
それでも——その温かい言葉は、干からびていた私の心に、一滴の澄んだ水を落としてくれたような気がした。
『はじめまして。美穂と申します。私でよければ、よろしくお願いします』
震える指で、私はゆっくりと返信を打ち込んだ。
この小さな一歩が、私の人生を劇的に変えることになるとは、この時の私はまだ知らなかった。




