第2話:娘が私の財布から最後の一万円を奪った日、私は母親を辞めた
「ちょっと、結衣……何をする気……?」
私が後ずさりするより早く、結衣は獣のように飛びかかってきた。
彼女の手が、私のパート用のカバンから強引に古い財布をひったくる。
「やめて! 返しなさい!」
「うるさいってば! どうせ大した額入ってないんでしょ? ちょっと見せなさいよ!」
結衣は私の制止を力任せに振り払い、財布の口を乱暴に開けた。
長年使い込んで端が擦り切れた財布の中には、小銭と、折りたたまれた一万円札が一枚だけ入っていた。
「あ、ちょうど一万円あるじゃん! ラッキー!」
「やめて、結衣! それは……今週の食費と、引き落としに足りない光熱費に充てるはずの、本当に最後のお金なのよ!」
私がすがりつこうとすると、結衣は心底見下したような目を私に向けた。
「はぁ? たかが一万円で大げさすぎ。これ、ルカくんへのお祝い金として有効活用してあげるから感謝してよね」
「お願い、それだけは……明日からのご飯が買えなくなるわ……!」
「だからうるさいって言ってんの! 推し活は義務なの! 親なら黙って娘の推し活のスポンサーになってればいいのよ!」
ドンッ! 結衣の両手が、私の胸を力任せに突き飛ばした。
「あっ……!」
バランスを崩した私は、背中からフローリングの床に倒れ込んだ。
鈍い音とともに、肩と腰に鋭い痛みが走る。
よろけてうずくまる私を見下ろし、結衣は勝ち誇ったように鼻で笑った。
一万円札を自分のブランド物の財布にしまい込み、キャリーケースの持ち手を掴む。
「じゃ、ライブ行ってくるから。夕飯、ルカくんの好きなオムライス作っといてね! ケチャップで『おめでとう』って書くの忘れないでよ!」
バタン! 乱暴に玄関のドアが閉まる音が響き、室内には冷たい静寂が落ちた。
空っぽになった私の財布が、無残に床に転がっている。
「…………」
痛む肩を押さえながら起き上がった私は、散らかった部屋の中でただ一人、呆然とその財布を見つめていた。
涙すら出なかった。代わりに私を満たしたのは、どこまでも静かで、冷え切った感情だった。
夫が遺してくれたこの家を守るため、そして結衣を立派に育てるため、私は自分の人生のすべてを犠牲にしてきた。
自分の服なんて何年も買っていない。美容室にも行かず、自分で髪を切った。
雨の日も風の日も、頭を下げてパートで働き続けた。
すべては結衣のため。あの子の笑顔が見たかったから。
しかし、その結果がこれだ。
私の二十五年間は、あの子にとってただの「搾取できるスポンサー」でしかなかったのだ。
プツリ、と。
胸の奥で、何かが決定的に切れる音がした。
(……もう、いいかもしれない)
私の中で、結衣に対する「母親としての愛情」と「責任感」が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
これ以上、この子に私の人生を吸い尽くされるわけにはいかない。
これ以上一緒にいれば、私は本当に骨の髄までしゃぶり尽くされて、路地裏で野垂れ死ぬだろう。
私はゆっくりと立ち上がり、震える手で自分のスマートフォンを手に取った。
そして、数日前にパート先での休憩中、何気なく広告を見てダウンロードだけしていた「あるアプリ」のアイコンを見つめる。
――『再婚・真剣な出会いを探すための、大人向け婚活アプリ』。
私なんかが、というためらいは、今はもう一切なかった。
私は静かに深呼吸をすると、そのアイコンをタップし、初期設定の画面を進め始めた。
これからは、あの子のためじゃない。私自身のために生きるのだ。




